作品タイトル『memories -3 years ago-』

 2.

 四階に辿り着くと、廊下を小走りに進み、突き当たりにあるさらに上へと続く階段を見上げた。倫の口元に笑みが浮かぶ。
 ――屋上! 一度行ってみたかったのよね。あそこからの景色は絶景だって修治さん言ってたもん。
 修治達が文化祭に屋上でゲリラライブを行って以来、扉には鍵をかけられてしまったが、倫は常々、ドラマのようにヘアピンを使って開錠できないかと目論んでいた。しかし、そんな高等技術を持ち合わせていない倫にとって成功率は当然ゼロに近かったのだが、無謀でもチャレンジしてみたいと思うのが中学生である。
 ゆっくりと最上階まで階段を上り、初めて見る錆びついた扉の正面に立つ。
「よし」
 まずは、ドアノブをゆっくり回す。
 しかし、案の上、ガチリという重い感触と共にノブの動きが止まった。
「やっぱりだめか……」
 ガチャガチャと何度かいじったが、すぐに倫はため息とともに手を離した。
「じゃ、やってみますか」
 耳の後ろで留めていたヘアピンを外し、倫はその場にしゃがむと鍵穴に視線を合わせた。
 ドラマで観たようにヘアピンを複雑な形状に曲げ、鍵穴にそっと差し込む。
 すぐに、ピンは何か固いものにぶつかった。そのまま左右に揺らしたり回転させてみたが、金属と接触するカチャカチャという音が響くのみで、一向に手応えがない。時折、掴んだピンがどこかの突起に引っかかり、指が滑る。
「う〜ん……」
 額に粒の汗をかきながら格闘する倫。ピンの形状を調節しては鍵穴に差し込むが、その度に指に固い感触が跳ね返り、段々指先が痛くなってきた。
「あ〜だめ……やっぱドラマみたいにはいかないな」
 扉を背に座り込むと、弾みで、持っていたピンが階段へ落ちた。
 ――カツン……。
 思ったよりも音が大きく響いた。その瞬間、
「誰かいるのか!?」
 丁度真下の廊下を歩いていたらしい、生徒指導教諭の怒鳴り声がした。
 ――げ! まずい!
 慌てて体を起こす倫。
 間髪入れず、ドタドタと階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。
 ――どうしよう、今度こそ夜までお説教だ! もう……あたしのバカ!
 自分の運のなさを嘆きながら扉に凭れかかる。無意識に後ろ手にドアノブを掴んだ時、軽い感触と共にノブが回転した。
「え……?」
 ゆっくりと扉が開き、吸い込まれるように倫の身体が大きく傾く。
 その瞬間、倫は軽いめまいを覚えた。思わず目を閉じると、春の暖かい風がさっと耳元を吹き抜けた。


 次に目を開けた時、倫はコンクリートの地面に座り込んでいた。顔を上げると、視界に晴れ渡った青空と優しい陽の光が飛び込んできた。暖かい風が花の甘い香りを運んでくる。
 急に訪れた開放感に倫は目を見張った。
 そこは校舎の屋上だった。広大なコンクリートの床を錆びついた金網がぐるっと囲んでいる。
 ――入れたんだ、屋上に。
 はっと起き上がり扉に耳をあてるが、誰も入ってくる気配はない。
「よかった、見つからずに済んだのね」
 でも、さっきは開かなかった扉が、なんで急に開いたんだろう?
 ヘアピンでガチャガチャしてるうちに実は開いてたのかな?
 そこまで思いついた時、傍の建物の陰から一人の女生徒が顔を覗かせた。
「!」
 驚いて後じさると、相手もはっとした表情で後じさった。
 色白で華奢な肢体、猫っ毛の髪を後ろでひとつにまとめている。幼さの残る瞳が真っ直ぐに倫をとらえていた。胸元の淡いピンクのスカーフが風にそよぐ。
「えっと……」
 言葉に詰まっていると、倫のコサージュに気付いた女生徒がふふっと笑った。
「あなたも卒業生?」
 見覚えのない生徒だったが、その優しい声音にほっとし、倫は笑顔になった。
「うん、そう。あなたも?」
 聞き返した時、倫は女生徒の胸元にコサージュが無いことに気付いた。
 ――もう外したのかな?
 特に気にせず、倫は頭を掻いた。
「もうびっくりしたよ〜。さっき生徒指導の先生に見つかりそうになって、慌ててここに逃げてきたの」
「……ああ、あの先生。よかったね、見つからなくて」
 笑顔を交わし、二人は金網の方へ歩いた。
 手すりから身を乗り出し、倫は歓声を上げた。
「すごい! こんなふうになってたんだ」
 地平線まで続く青空に、耳心地のいい小鳥のさえずり。眼下の桜並木は鮮やかに色づき、萌える緑と共に穏やかに佇んでいる。見慣れた通学路、見慣れた町並みが、鮮明なパノラマに変わる。
「こんなきれいな眺めだったんだね!」
 振り返ると、女生徒は笑顔で頷いた。
「私、ここからの景色が大好きなの。文化祭の時のライブ、知ってるでしょ?」
 修治さん達のことだ――倫は大きく頷いた。
「ボーカルの子がね、ここの合鍵を作ってて、ライブが終わった後にこっそり見せてくれたの……ここからの夕日を」
 ――暮れなずむ夕日が、木も屋根も通学路も……目に映るものすべてをオレンジ色に染めていく。陽が傾くごとに少しずつ濃くなってゆく影絵。頬を撫でるあたたかい風がどこか懐かしく、胸が詰まりそうになる。
「本当に綺麗で……感動したの。中学で一番の思い出よ」
 目を輝かせて語る女生徒。倫にもその情景が目に浮かぶような気がした。
「いいなあ……あたしもずっとここに入りたくて、今日初めて入ったんだ。そんなすごい景色が見れるならもっと早く忍び込んでおけばよかった」
「ふふ。ライブの後すぐに立ち入り禁止になっちゃったもんね」
 少し誇らしげに女生徒が笑う。「ボーカルを担当した彼、クラスのムードメーカーでイベントごとが大好きだったの。ライブを発案したのも彼。彼は人気者だったから、当日まで先生達に内緒にして文化祭でみんなでライブをして驚かせよう、ていうアイディアに、クラス全員が乗ったの」
「へ〜! そうだったんだ」
「もちろん、ライブは大成功。だけどみんな先生達に大目玉喰らって……屋上も立ち入り禁止になって。あの時だけは彼、みんなにブーブー言われてたわ」
 可笑しそうに微笑む女生徒。
「特にあの生徒指導の先生とか、大激怒だったんじゃない?」
「そうなの。それから三年間ずっと目をつけられてたわ」
「やっぱり」
 倫と一緒に笑っていた女生徒が、ふいに真顔になる。
「……でも、それもぜんぶ今日で終わりなのよね」
 遠くを見つめる女生徒の横顔が、思いつめたように沈んでいく。
「卒業だもんね。清香は……あ、友達なんだけど、学校が別になってもまた会えるから大丈夫って言うんだけど、やっぱさみしいよね」
「そうね……」
 女生徒が倫の胸元を見る。「リボンの交換はしなかったの?」
「え、あ、これは」
 赤面する倫。「その……この後ね、渡す人がいて……」
「男の子ね?」
「……うん。まあ、片思いなんだけど……」
「そうなの?」
 優しい微笑みを浮かべた女生徒の表情がふいに曇った。「でも、片思いでも……いいわね。気持ちを伝えられるチャンスがあるんだから」
「? あなたは渡さないの?」
 倫は女生徒の雰囲気によく似合っている淡い色のスカーフを見た。風に揺れるリボンの端にK≠ニいう白い刺繍がある。
「これは……もう渡せないの」
「え?」
「間に合わなかったの」
 目を伏せる女生徒。
「間に合わなかったって……その人、もう帰っちゃったの?」
 女生徒が首を振る。
「私が遅すぎたの。卒業式に出られなかったから……きっと、彼に誤解されちゃったわ」
 ――卒業式に出てない……だから、この子にはコサージュがなかったんだ。
「彼って……もしかして、ここに入れてくれた、ボーカルの人?」
 女生徒が小さく頷く。
「私、小さい頃から体が弱くて、三年生になってからは特に休みがちになって……。だけど、せめて今日だけは、ちゃんと卒業式に出て彼に会いたかった。でも……だめだった。間に合わなかったの」
 項垂れる女生徒の姿に、倫は段々といたたまれない気持ちになっていった。
「そんな、間に合わないって決まったわけじゃないじゃない!」
「いいの、もう……最後にここからの景色が見れただけでも」
「よくないよ! 今からだって追いかければ……」
「無理よ」
 俯いたまま呟く。「彼、遠いところに行くの。式が終わったらすぐに……。それまでにちゃんと気持ちを伝えたかったけど、もうだめ。無理なの」
 その言葉に、倫の中で押し込めていた感情が弾けた。
「もう! 無理って決めつけないで! 後悔するのはまだ早いよ、今すぐ追いかけよう!」
 強引に女生徒の手を引く。
「だめよ……私、走れないの。だから、もう……」
 彼女の後ろ向きな姿が修治に対する自分と重なる。
 じれったいわね
 清香の言葉が蘇った。
 ――ああ、もう、本当にじれったい!
 そうよ、せっかく告白するチャンスがあるのに、こんな後ろ向きじゃだめだ。
 チャンスなんて、一度失ったらなかなか次≠ネんてこない。あたしはそのことをよく知ってる。チャンスがあったのに気持ちを伝えられなかった、そのせいで、勇気のない自分への後悔が今もずっと残ってる。それはとても苦しいし、つらい。
「ねえ、今日を逃したら、その彼とは会えなくなっちゃうんでしょ? 今日が最後のチャンスなんでしょ?」
 女生徒が顔を上げる。
「そうよ……。でもやっぱり、こんな弱い私じゃ……彼にとって迷惑かもしれない」
「そんなこと言わないでよ! そのひとって、あなたが身体が弱いからって嫌いになるような人なの?」
「……!」
 女生徒の瞳が揺れる。「ううん、違う……。誰にでも平等で、引っ込み思案な私のことをいつも気遣ってくれて……」
 ――ライブの時も、激しい運動ができない私に、衣装作りの役をくれた。
 家庭科が得意なんだよな? じゃあ衣装係のリーダーに任命! みんな、決まりな!
「ライブの後、みんなには内緒って言いながら、あの夕日を見せてくれた……」
 すっごい綺麗だろ? 一緒に見れてよかったなぁ
「本当に、とてもとても嬉しかった。彼のお陰で、三年間とても楽しかった」
 自然と女生徒の顔がほころぶ。
「――だったら」
 倫の瞳が輝く。「そのこと、ちゃんと彼に伝えようよ。勇気を出そうよ。今日が最後のチャンスなんだよ?」
「そうだけど……もう帰っちゃったし……」
「だいじょうぶ!」
 倫がガッツポーズを作る。「任せて! 追いかけて、ここにつれてきてあげる。なんて名前なの? そのひと」
 その勢いに呆気にとられる女生徒。
「えっと……勇輝よ、神谷勇輝」
「OK。神谷くんね」
 すぐさま駆け出そうとする倫。
「あっ待って……! どうしてここまでしてくれるの?」
 戸惑う声に、倫は照れ臭そうに頭をかいた。
「……あたしもね、さっきまで、リボンを直接渡すのをすごく迷って……色々悩んでたの。でもそれじゃダメだって気づいたから……あたしも、ちゃんと勇気を出そうと思ったんだ。あなたのお陰」
 だから、待ってて!
 そう言い残し、倫は扉へ駆け出した。
「……ありがとう」
 優しい声音が耳に届いた時、倫はふいにまためまいを覚えた。
 ――え?
 視界が回転し、体を吹きぬける風に大きく体勢を崩す。
 ……倒れる!
 強く目をつぶったが、次に訪れるはずの衝撃はなかった。
「……え?」
 目を開けると、倫は屋上の扉を背に、室内に座り込んでいた。階下へ延びる階段に、先ほど放り出したヘアピンが転がっている。
 振り返ると、扉はピタリと閉じていた。
 ――いつの間に屋上から出たっけ?
 軽く頭を振り、倫は気を取り直して立ち上がった。
「まあいいや、それより、神谷くんを連れてこないと!」
 神谷≠ニいう名字に心当たりはなかったが、倫達の学年は6クラスあるため、知らない顔ぶれがあっても不思議はなかった。
 ――そう言えば、さっきの子も見たことない子だったな。
 もしかしたら神谷くんはもう帰っちゃったかもしれないけど、先生に聞けば住所はわかるだろうし、まだ追いつけるかもしれない!
 脚力に自信のある倫は楽天的にそう考え、大股で階段を駆け降りた。