作品タイトル『蜘蛛』

 2.

「どーしたの? みつき」
 その声に、私は思わず顔をあげた。
 あれから一日経った昼休み、私はクラスメートのアズミと教室でお昼を食べていた。二人でお弁当を広げているのだけど、私の傍らには図書館から借りてきた大量の本がある。
 ちなみに、私の名前は、一柳≪いちりゅう≫みつき。ここ、都立鴻台高校の2年生。衣替えをしたばかりの夏服は、白いブラウスとワインレッドの紐リボン。プリーツスカートはモスグリーンで、近隣の高校の生徒にはオシャレで可愛い≠ニ評判の制服。私はいつもその上にベージュのベストを重ねている。
 サンドイッチを頬張りながら本をめくる私を、アズミが興味津々で眺めている。
「なんで、いきなりガリ勉なの〜?」
「がり勉っていうか……まあ、ちょっとね」
「しかも、なんか蜘蛛の本ばっかりだし〜」
 メガネを掛けなおしながら本の背表紙をなぞるアズミ。
 アズミは二年になってから知り合った友達。ふわふわの猫っ毛にメガネがトレードマークの美人系。一見大人しそうなんだけど、実は意外にもホラーマニアでその手の話に詳しい。そしてなぜか、話す時は語尾を伸ばす癖がある。
 ――あのあと、蜘蛛は私の部屋に居ついて、天井に巣を作り始めた。確かに、蜘蛛がいると部屋がとても涼しくて、快適に眠ることはできたんだけど。
 食事についても、欲しいって言うからアイスとチョコレートとポテチを傍に置いて寝たら、朝になると空になっていたから、どうやらそれを食べたらしいのよね。あの時は、そんなの食べるかよ、なんて言ってたくせに、結局食べてるのよね。しかもお菓子ばっかり……栄養ないと思うんだけど。
 でもそもそも、普通のクモが何を食べるのか知らないから、念のため図書館でそれっぽい本を借りてきたんだけれど……うう、節足動物の写真だらけの図鑑はグロテスク……。さすがの私でも食事中に眺めたくないかも。
「だけど、調べ物でもしないとやってらんないわ」
「え?」
 私の独り言に、アズミが怪訝そうな顔をする。
 なんか、勢いで蜘蛛をペットにしちゃったけど……今さらだけど大丈夫かな? 変なことが起こらなきゃいいんだけど。
 ま、期限は一週間だから、それさえ過ぎちゃえば追い出せばいいかな……。
 ため息をついて本を閉じる私に、アズミが卵焼きを頬張りながら呟いた。
「蜘蛛って言えば、色々伝説あるよね〜。源頼光に倒されたっていうやつとかさあ」
「? 何それ?」
「あ、知らない〜?」
 アズミは世間話のようにすらすらと話し出した。「土蜘蛛草子っていう話なんだけど〜。熱病でうなされいる頼光を襲った法師がいて、頼光が彼を切りつけた血痕の後を辿っていくと、そこには巨大な蜘蛛がいたんだって」
「蜘蛛?」
「そう〜。で、その蜘蛛を退治したら、嘘みたいに頼光の熱も治った――その時蜘蛛に切りつけた刀の名前が蜘蛛切っていう名前になったとか、蜘蛛がいた場所に土蜘蛛塚っていう石灯篭を建てたとか、そういう逸話。昔ならどこにでもあるやつね〜」
「ほ、他には?」
 迫る私。
「他? ん〜あとは、土蜘蛛≠ノついてかな〜。日本書紀に書かれたのが最初らしいけど、蜘蛛って言っても虫のクモとは関係なくて、当時のヤマト政権に反抗した首長達のことを指してたみたいで〜。ほら、昔話に出てくる鬼≠ニかもそうじゃない? 本当の鬼のことじゃなくて、人を指してるってやつ。伊勢物語とかでもさ、姫は鬼に食われました〜≠ニか言ってるけど、実は家族に連れ戻されたっていう暗喩だったり〜」
 うーん、そう言えばなんとなく授業で聞いたかも……。
「ていうか、アズミ。よく知ってるのね! 歴史」
「まあね〜」
 彼女のメガネが光る。「他にもあるよ〜。一口に蜘蛛って言っても、日本じゃ1300種、世界では35000種もいるっていうこととか〜」
「……げ、そんなに?」
「うん、しかもあのゴキちゃんすら食べてくれるんだって〜。なのに嫌われてるよね、蜘蛛って」
 ……確かに。
「うーん……見た目のせいじゃない? タランチュラとか、不気味じゃない」
 私の言葉に、アズミは口を尖らせた。
「でも〜タランチェラは致死量の毒は持ってないんだよ〜?」
「えっ! そうなの?」
 ……知らなかった。
 なんかもう、その名前だけで簡単に人を殺せそうな動物って思ってた。
 ――いや、それよりも。
「ちょっとアズミ、なんでそんな蜘蛛に詳しいの?」
 詰め寄ると、アズミは得意のホラー話を話す時のように、妖しくにんまりと微笑んだ。彼女なりの自慢の表情だ。
「去年、うちの演劇部で妖怪の話やったでしょ〜? あの特殊メイク、ほとんど私なのよ〜」
 アズミが言っているのは、一年生の時の文化祭のことだ。毎年演劇部の公演があり、例年その脚本と演技のクオリティには定評がある。
 確かに、去年の舞台には色んな妖怪が出てきてたけど……なんとなく、その中に蜘蛛男もいたような気はするけど……。
「でも、アズミは脚本じゃなくて特殊メイク担当でしょ? それとその凄い知識って、関係あるの?」
「あるよ〜。広大な知識なくして、クオリティの高いメイクはできないわ」
 そういう時だけはきっぱり言い放つアズミ。ホラー系に関して、彼女に妥協はない。
 ――はあ。プロ根性ってすごい……。
 感心していると、背後からいつもの陽気な声がした。
「おいアズ〜。みつきまでホラー世界の住人にすんなよな?」
 梶だ。梶も今年から仲良くなった男子で、クラスのムードメーカー的存在。でも、私の中ではちょっと軟派な印象。彼が明るめの茶髪に、いつも両耳に三つくらいピアスをしてるせいかもしれない。当然、そんな外見だからいつも生徒指導の先生に叱られてるけど、あまり懲りてないみたい。ちなみに、ホラーは大の苦手。
 梶の発言に心外そうな顔をするアズミ。
「違うわよ〜。メイク技術についてのお勉強≠してたの!」
 アズミが梶のツンツン髪を引っ張る。
「いててッいてッ! そ、そりゃ失礼」
 すごすご席に戻っていく梶。二人は一年生の時から仲がいいらしく、そのやり取りはいつも漫才をしているようで見ていて面白い。
「……ま、蜘蛛についてはそれくらいしかわかんないけど〜どうかしたの?」
「ううん、大したことじゃないんだけど」
「ふぅーん?」
 アズミが頬杖をついてじっと私を見た。「もしかして……オバケ関係?」
「な、なんで?」
「だって、みつきん家って神社でしょ?」
「えっ、そーなのか!?」
 また梶が割り込んでくる。
「神社って言っても、神主はおじいちゃんだから……私にはあんまり関係ないよ。……あ、梶のために言っとくけど、別に神社に住んでるわけじゃないからね?」
 へらっと笑う梶。短絡的な考えをする方だから、彼の中ではやはり私が神社に住んでいると想像していたらしい。
「でも〜家系的なものってあるでしょ? みつきは霊感ないの〜?」
「うん、ないんだよね、全然」
 ――蜘蛛とは会話できちゃったけどね。
「なんだ〜てっきりオバケ関係なのかと思ったのに」
 アズミがお弁当箱を片付け始める。「心霊関係なら絶対、次のネタにいけると思ったんだけど〜」
「ネタって……今年は幽霊の話でもやるの? 演劇部」
「ふふ」
 不敵に笑うアズミ。
「なあなあ、みつきって巫女さんとかやんのか?」
 梶がウキウキしながら聞いてくるけど、とりあえず無視。何やら巫女さんに絶大な憧れでも持ってるみたい。
「あ〜幽霊で思い出した」
 と、アズミ。「隣のクラスにさ、鎮目君っていう霊感少年がいるんだって」
「へ?」
「なんだそれ」
「なんか、隣のクラスの女子に取り憑いてた霊を除霊したとかなんとかで、ちょっと前に有名になってたわ。ほんとかどうかは知らないけど」
「へぇ……」
 呟くと、背後にいた梶がカタカタと震えているのがわかった。
「そういうの、う、胡散臭ぇな〜」
 強がりつつも青ざめている梶。本当に苦手なのね。
 その後予鈴が鳴り、梶は急いで自席に戻っていった。
 私はお弁当を片付けながら、ぼんやりと考える。
 ――鎮目君……かあ。
 よくわかんないけど、その手の話に詳しい人なら、もしかしたらちょっと相談に乗ってもらえるかも?
 アズミの言ってた蜘蛛≠フ話とあいつはまたちょっと違うし……心霊関係に強い人なら何か情報を知ってるかもしれない。
 本当はこういうのおじいちゃんに聞いてみたいけど、そんなことしたらきっと、目を輝かせて修行しろ≠チて勧めてくるだろうから……。おじいちゃんの息子にあたる私の父は霊感が全くないから、おじいちゃんは誰かに神社を継がせたくて必死なのよね。
 私は普通の生活がしたいんだもの。一般社会で。
 ……って、蜘蛛を家に招き入れた時点でちょっとその未来は揺らいでるかもしれないけど……。
 とにかく、放課後、鎮目君に会ってみよう。
 私の真剣な決心をよそに、本鈴のチャイムはのどかに鳴り響いた。
 

「え……蜘蛛=H」
 鎮目君が怪訝そうな表情になる。
 放課後、私は隣のクラスに向かい、今まさに教室を出ようとしている鎮目君をつかまえて、強引にこのファミリーレストランに連れてきていた。好きなものを奢る代わりに、話を聞いて欲しいと頼み込んで。
 初めて会話する鎮目君の第一印象は、とにかく線の細い人、だった。華奢で細くて髪もサラサラ、一瞬女性に見間違いそうになるくらい綺麗。女子から人気があるんだろうと思わせる、穏やかな物腰。ただ、その端正な容姿とは対照的に、ちょっと陰気そうな雰囲気が気にかかった。
「そう、聞きたいのは、蜘蛛についてなの。でも、普通のクモよりはちょっと大きくて――」
「……大きい、クモ?」
「そう、でも普通のクモじゃないの。会話できるのよ。人間がエサだとか、誰かに追われてるとか言ってて……それで、うちに棲み付いちゃったの」
 ――というか、私が招き入れてしまったんだけど。
 運ばれてきたカフェオレに手をつけずに、私は一気に話した。蜘蛛と出会ったいきさつと、正直ちょっと困っていること。何か知っていることがあれば、アドバイスが欲しいこと。
 だけど、鎮目君は話の後半から、ぼーっとした表情でブラックコーヒーを啜り始めた。
 ……バカバカしいって思っているのかもしれない。
 話し終えると、私達の席だけが静寂に包まれた。流れる明るいBGMが間抜けに響く。
「えっと……やっぱ、変よね、こんな話」
 息苦しさに耐えられず、私は笑いながらカフェオレを口に運んだ。あ、やっぱり冷めちゃってる。
 空になったコーヒーカップを受け皿に戻し、鎮目君は静かに呟いた。
「……で、一柳さんは、どうしたいの」
 深く沈んが瞳がまっすぐ私を捉えた。「そいつを、消してほしいの?」
「え? 消すって……」
「だから、除霊してほしいの?」
 冷たい声。端正な顔立ちから紡がれるとは思えない残酷な言葉。
「えっと……。こういうことってあるかなって、ちょっと話を聞いて欲しかっただけで、除霊とかは考えてなかったかな……」
 笑ってごまかそうとしたけど、彼の目は据わっていた。
「どこ」
「え?」
「君の家」
「……鈴森町だけど」
 答えると、鎮目君はさっと立ち上がり、
「行こう」
「えっ」
「俺が、除霊してあげるよ」
 言うが早いか、鎮目君はすたすたと店を出て行ってしまった。――私と伝票を残して。
 もう、そんなこと頼んでないのに……。
 というか、なんか第一印象と違うんだけど……ちょっと怖い。大丈夫なのかな?
 会計を済まし、私は慌てて彼の後を追った。
 姿勢をピンと正して歩く彼の後ろ姿から、私はなぜか異様な雰囲気を感じた。
 それに……今日初めて会った人に、家を教えるべきじゃなかったかな……。
 そう思いながらも、私は鎮目君に問われるままに家の方角を教え、10分後には彼を家に招き入れてしまっていた。
「――とりあえず、お茶でいい?」
 両親とも不在だった為、仕方なくリビングに彼を通した。
 鎮目君はうん、とも、お構いなく、とも言わず、ソファに腰かけたままぼうっと天井を見つめている。
 ……変なトコ見つめてないでよ、怖いな。
 私は来客用に母がとっておいた紅茶の缶を取り出し、慌ただしくお茶のセットを作った。
「はい、クッキーくらいしかないけど……」
 差し出すと、鎮目君は無表情で、
「蜘蛛って、どこに棲み付いてるの?」
「え?」
「あんまり、気配感じないけど」
 ……やっぱり霊感少年なのかな、鎮目君。
「私の部屋にいるのかも……巣を作ってたし」
 言い終わらないうちに、鎮目君はまたもさっと立ち上がった。
「あの……お茶飲んでからにしない?」
「――君の部屋、見せてくれる?」 
 ……ダメだ。
 諦めて、私は彼を二階に案内した。
 初対面の男子に部屋見られるのって、イヤだな……。
 自分で招いた展開に、自己嫌悪に陥る。
 鎮目君は他人の家とは思えないほど堂々と歩いている。なんかさっきから機械的すぎて、ちょっと怖い。
 テレビで見る霊能者の中にも、ちょっとおどろおどろしい雰囲気の人はいるけど……霊感がある人ってみんなこうなの?
 でも、おじいちゃんは霊感があっても気さくなんだけどな……。
 鎮目君を見てると、口数の多さなら蜘蛛が圧勝だな、とさえ思えちゃう。まあ、蜘蛛は口を開けば皮肉ばかり、って感じだけど。
「……ここ」
 ドアを開けて部屋を見せると、彼は躊躇いもなくズカズカと入っていった。
「ちょっと……」
「――いないね」
 彼は淡々と言い放った。
「え?」
 私も中に入ってみるけど、確かに蜘蛛がいた時の冷気は感じられない。天井の隅に作られた巣はそのままで、姿だけがなかった。
 出かけたのかな?
 ――なぜか、私は心のどこかでホッとした。
 一週間の期限を伝えてあるから、そのうちにまた部屋に帰ってくるだろうけどね。
「なんか……いないね?」 
 愛想笑いをすると、彼は苦虫を噛み潰したような怖い表情になっている。
「あ、あの……ウソじゃなかったんだけど……」
 その声に、彼は鋭い瞳で私を睨みつけた。
 ――殺意を感じた。
 心の中でなにかがヤバイ! と叫んでいた。鼓動が早まる。
 鎮目君は、私を睨みながらゆっくりと細い手を上げた。私へ腕を伸ばし、ゆっくりと迫ってくる。
「な……なに?」
 後じさる私の目に、彼の背後から立ち上る黒い靄のようなものが見えた。――その時。
 ピンポーン。
 インターホンの軽快な音が響いた。
 我に返ると、私は階下へ走った。
 ドアを開けると、人のよさそうな笑みを浮かべた兄が立っていた。
「おお、みつき。帰ってたのか」
 兄ののんびりした声を聞き、私は急に力が抜けた。安堵の息をつく。
「……お兄ちゃんこそ、どうしたの? 今日は早いじゃない」
「ああ。この間の事件が解決したからな。久しぶりに帰れたよ。あれ、母さんは?」
 兄が私の背後を覗き込んだ時、物凄い勢いで鎮目君が飛び出していった。
「あ」
 声をかける暇もなく、彼は駆けて行った。
「なんだ、彼氏か?」
 何も知らない兄が微笑む。
「まっさか! お兄ちゃんこそ、早く彼女作りなって」
「それを言うなよ〜」
 兄が頭を掻く。
 ――ああ、怖かった。本気で、殺されるかと思った。
 兄を迎え入れながら、私は初めて手が微かに震えていることに気付いた。
 
 ――その夜、私は久しぶりの家族四人での食事を楽しんだ。十歳年上の兄が警察官の為、今までなんだかんだあまり家族全員が揃うことがなかったのだ。
 そんな団らんの空気を壊さないように、私は極力鎮目君のことを思い出さないようにした。
 ちなみに、いつも思うけど、ぽやんとしててのんびり屋の兄が刑事だなんて、未だにちょっと信じられない。兄が警察官を目指すと言い出した時、家族総出で止めたくらいだもの。刑事は危険な仕事だっていうこともあるけど、こんな風貌じゃ犯人にも舐められて仕事にならないんじゃないかと思って。
 だけど、兄は両親の反対を押し切って警察学校に入った。念願の刑事になって五年、署内でその働きぶりが徐々に認められ、両親も兄のことを認めざるを得なくなった。今じゃ、兄が泊まり込みの仕事から戻る度にご馳走を用意し、自慢の息子≠セと称えている。お兄ちゃん子の私は、そんなやりとりを見るのが大好きだ。

 そんな和やかな食事を終え、お風呂を済ませて部屋に入ると、唐突に蜘蛛の気配がした。火照った頬を冷気が撫でる。
 ――その瞬間、私は忘れようと努めていた嫌な出来事をすべて思い出してしまった。
「蜘蛛……いるの?」
『よう、おかえり』
 含み笑いをする蜘蛛の声。
 だけど、巣の方を見てもいない。
「どこ?」
『机の上』
 勉強机を見ると、蜘蛛がちょこんと乗っていた。
「もう、びっくりさせないでよ」
 タオルで髪を乾かしながら、私はベッドに座った。
『今日、誰か来たのか』
「え、あの時いたの?」
『いや、外に出ていた。だが、気配が残ってる』
 気配って……。
「うん……。霊感があるっていう隣のクラスの人が来たのよ」
『へえ、男か』
「……そうだけど」
『それで、わざわざ部屋に上げたのか。いい口実だな』
 蜘蛛の声が莫迦にしたように響く。
「な、なによ! そういうんじゃなわよ。あんたのことを相談してたのよ」
『……わかってる。とんでもない奴を連れてきたな』
 突然、蜘蛛の口調が真剣になる。
 もしかして、鎮目君て――雰囲気はかなり怖いけど――本当に凄い力を持ってるのかな。自信満々にしている蜘蛛を脅かすくらいの……。
「ビビってるの? 蜘蛛」
『ふん、まさか』
 いつもの皮肉たっぷりな声音。『みつき。今度またそいつを連れてこいよ。いいもん見せてやる』
「ちょっと、呼び捨てしないでよ」
 私の反論を無視し、蜘蛛はさっさと巣に戻った。しばらく睨みつけてみたけど、動かない。
 ――言いたいこと言って寝ちゃったの? 勝手なんだから!
 でも、まあいいか……。私も早く寝てしまおう。
 髪を乾かし、私はすぐにベッドに入った。
 なんだか、今日はすっごく疲れた気がした……。
 

 翌日。
 登校すると、何やら校内が騒がしい。いつもの朝の喧騒とかじゃなくて、なんだか張り詰めた緊張感が漂ってる。
 教室に入ると、アズミと梶が真っ先に話しかけてきた。
「ねえ、みつき。一年生の女子生徒が行方不明って知ってる?」
「え? なにそれ」
「なんでも、一週間前から家に帰ってないんだってよ!」
 興奮した二人が私の前に立ちはだかる。
「真面目な子だったらしくて、家出の可能性は低いんだって〜」
「事件性もあるってんで、何人かの女子が事情聴取受けたんだってさ」
 だから、なんだか校内が落ち着かないのね。納得。
「――なあ、みつきの兄貴って刑事だろ? その子の捜索したりすんのか?」
 と梶。一番聞きたかったのはこれらしい。
「うーん……お兄ちゃんは事件担当だから、事件性があるなら捜索もするかもね」
「へえ! かっこいーよなあ、刑事ってさあ……! あの有名な映画とか、漫画の主人公がさあ――」
 と、梶は刑事について何やら一人で語り始めた。梶は刑事にも絶大な憧れがあるのね?
 アズミと私は無視して自分の席に着く。
「ねえ、みつき」
 アズミが後ろの席から声をかけてくる。「昨日、話したんでしょ〜? 鎮目君と」
「え」
「知ってるもん。鎮目君と一緒に下校したこと〜」
「……あ、見られてた?」
「ううん、隣のクラスの子の情報〜。……それで?」
 アズミのメガネが光る。何かを期待されてる感じ。
「確かに、昨日話した……んだけど、なんかよくわかんないんだよね。彼、なんか怖くて」
「ふーん?」
 言いづらそうにすると、アズミはそれ以上何も聞かなかった。その気遣いが有難い。
 だって、昨日のあの異様な雰囲気……どう説明したらいいのかわからなかったから。関わらない方がいいのかな……もう。
 だけど……蜘蛛は何を企んでるんだろう? また連れてこい、なんて。
 今朝起きるとまた蜘蛛の姿はなかったから、何も聞けなかったんだけど。
「大丈夫? みつき」
 物思いにふけっていた私は、その声で我に返った。
「うん、大丈夫」
「ならいいけど〜。ちなみに、今朝鎮目君が図書室の方行くの見たよ〜?」
「……あ、ほんと?」
「お礼とかいいの〜?」
 ――お礼かあ……。
 気は進まないけど、一応相談には乗ってくれたんだし……。一言くらい言っておいた方がいいかな。
 それに、学校ならさすがに何にもないだろうし……。
 時計を見ると、HRまでにはまだ十分時間があった。
「ちょっとだけ、行ってくる」
 アズミに言い残し、私は小走りで教室を出た。
 階段を駆け上がり、図書室がある四階の突き当たりへ向かう。
 図書室の扉は少し開いていた。おそるおそる覗くけど、朝の図書室に人気は無い。
「あれ? 鎮目君?」
 あんまり中には入りたくなくて、扉のところで声をかけてみたけど返事はない。
 出直そう……。
 そう思って振り向いた瞬間。
「なに?」
 鎮目君の青白い顔が間近にあった。
「きゃ!」
 思わず飛びのく。
 鎮目君は私の背後にいたのだ。暗い瞳で私を見下ろしている。
「今、呼んだだろ。なに?」
 抑揚のない声。
「えっと……昨日はごめんね、せっかく来てもらったのに、蜘蛛がいなくて」
「別に」
 人形のように虚ろな表情。
 ――連れてこいよ
 ふいに、蜘蛛の言葉が蘇った。
「あの……また今度なら……蜘蛛、部屋にいる、かも……? って思うんだけど」
 鎮目君の表情が動いた。
「今度って、いつ?」
「え?」
「……いつ」
 鎮目君が冷たい瞳で私を見下ろす。
 ――やっぱり、怖い。
 また、鎮目君の背後に黒い靄が見えた。気付くと、胸が悪くなるほどの異臭も漂い始めていた。
 これ、全部鎮目君から出てるもの……?
 意識が朦朧としてくる。
「一柳さん……」
 思わず、近づいてくる鎮目君を突き飛ばし、私はその場から逃げ出した。階段を駆け下り、教室まで走る。
 ――なんなの、なんであんな怖いの? 鎮目君って……何者?
 肩で息をしながら教室に戻ると、丁度予鈴が鳴った。
「ちょ、どーしたの? みつき」
 青ざめながら荒い息をしている私に、アズミと梶が目を丸くする。
「……鎮目君と、なんかあったの?」 
 アズミが声を潜める。
 何と言っていいかわからず、
「あの人、やっぱりちょっと変かも……」
 そう呟くのが精いっぱいだった。
 怪訝そうな顔をするアズミは、今回も無理には聞き出そうとせず、何かあったなら聞くよ? とだけ言った。
 だけど、何からどう話せばいいのかわらない。
 それに、話すとアズミまで変なことに巻き込みそうで、私はありがとうとだけ言っておいた。
 しばらくして本鈴が鳴り、騒がしかった校内が静まり返る。
 担任からは行方不明の生徒がいることを簡単に説明され、何か気づいたことがあれば言うように、とだけ伝えられた。
 その言葉も室内のざわめきも、私にはフィルターがかかったようにぼんやりとしたものにしか感じられなかった。
 鎮目君から発せられた悪臭がまだまとわりついているようで、気分が悪い。
 ――なんでこんなことになっちゃったんだろう。
 鎮目君に関わらなきゃよかった……。
 ううん、そもそも、すべての元凶は蜘蛛じゃない。
 一週間の期限が経ったら、絶対に出ていってもらおう。
 私は固く心に誓った。