作品タイトル『蜘蛛』

 1.

 ――世の中、想像もしてなかったような出来事が平然と起こるものである。
 17年間生きてきて、こんなにもはっきりと確信を持って言える事実が、これ。
 もうちょっとマシな事実を述べたいトコなんだけど、このことを納得するきっかけになった出来事があまりにもインパクトが強すぎたんだから、仕方ない。
 とにかく、ことの始まりは夏――初夏の日曜日の昼下がりのことだった。


『あ〜暑ッい』
 地の底から響くようなその声に、私は思わずはっと目を覚ました。
 途端に、耳障りな子どものはしゃぎ声が頭に響く。
 昼下がりの公園は人気も少なく、閑散としていた。熱された鉄遊具に、小さな噴水とベンチが並ぶ狭い広場。
 私は、丁度木陰になっている木のベンチに腰掛け、棒アイスを食べているところだった。うたた寝したせいで、右手のアイスが食べかけの状態で溶けかっている。
 園内には、まばらに植えられた大木の傍で、虫取り網とカゴを持った数人の子どもが走りまわっている。子ども達は口々に叫びながら、木から木へと移動している。大方、理科の研究とかの虫を探しているんだろう。蝉が出てくるにはまだ少し早いけれど。
 ――今日は日曜日。朝から友達と繁華街に出かけたものの、友達は途中で彼氏からの呼び出しがあって帰宅。フリーの私は昼前にとっとと地元に帰ってきていた。あまりの暑さにコンビニでアイスを買い、食べているうちにうたた寝しまったらしい。意識が飛ぶ直前、まるで冷凍庫の中にいるような心地よい風が幾度も吹き抜けていったことを覚えている。
「やば、溶ける溶ける」 
 慌ててアイスを舐める。と、
『だりぃな、ったく』
 また、夢心地に聞いたあの低い声がした。
 蝉の声だけがあたりに響き、ぬるい風が首を撫でた。
 私は思わず身を強張らせた。ベンチに座っているのは私一人。ゆっくり周りを窺ってみても、人の姿はない。
 ……今の声は、一体どこから……?
『死にそうだぜ……』
 また、暗い声。
 初夏の熱気の中、私の背筋は寒くなった。
 遠くに群がっている子ども達以外、人気がない公園。
 ――もしかしたら、近くに急病人でも転がってるの?
 ゆっくり立ち上がり、ベンチの周り、後ろの茂み、木の後ろまで回りこんでみたが、誰もいない。
 声の雰囲気から、それほど遠くからのものじゃないと思ったけど……。
 ベンチに座り直し、私はアイスの最後の一口を頬張った。うまい。
 ……とか言ってる場合じゃない。
 訳が分からずぼーっとしていると、向こうで虫を追いかけていたであろう子ども達の群れがこっちに駆けてきた。彼らは何やら口々に叫びながら、私の後方にある――さっき私が回り込んだ――木の方へ向かった。
「ほんとにいるのかよ、この公園に」
「ほんとだって、この間見たんだ!」
「すっげーおっきかったんだぜ〜」
 興奮する少年達の中に、一人だけ女の子が混ざっている。少女は怖いの半分、好奇心半分、といった感じで彼らの後をちょこちょことついて行く。
「あっほら、見てみろよ!」
 少年の一人が叫んだ。
「あ、いたぞ、でけえよ」
 興奮する子ども達。
 ? 何なんだろう?
 私はアイスの棒をゴミ箱に捨て、子ども達の後ろから木を覗いた。
 ――蜘蛛だった。
「すっげーこいつ」
「でけー」
 子ども達がはしゃぐ。
 太い幹に、真っ黒な蜘蛛が張り付いていた。その全長は、よく家で見かける蜘蛛の数倍の大きさだった。体を取り囲む足はなんと10本。
 ――蜘蛛って8本足じゃなかったっけ?
 そう思った時、私はなぜか寒気を覚えた。小さい頃から男子に混じって蝉やカブトムシを追いかけてたから、今でも少しくらいグロテスクな虫を見ても平気だったはずなんだけど。なぜか、目の前の蜘蛛を見た時、まるで野生の獣に遭遇したかのような戦慄を覚えた。
 揺れる木漏れ日が、蜘蛛の漆黒の体を照らし出している。
「なんだこいつ、気持ちわりぃ〜!」
 一人が叫ぶと、少年たちは虫取り網の柄で蜘蛛を突き始めた。
『いてッ何しやがる』
 また、さっきの声が聞こえた。
「届かないし〜」
 一人の少年が悔しそうに棒を振り回す。
『危ねぇなッ。殺すならもっと優しくやれよ』
 面倒くさそうな声音。
 面白いことに、声は子ども達の棒が蜘蛛に当たる度に聞こえた。まるで、タイミングに合わせて誰かが蜘蛛のアフレコをしているようだ。
 ――え、でも待って?
 私はまた周りを見回した。子ども達と私以外、誰もいない。
 アフレコ役なんて、いないけど……?
「くそー」
 痺れを切らした少年達は、ついに石を投げ始めた。
『危ねッ! くそガキ』
 吐き捨てるような声。『これだからガキは……』
 ため息をつく声。
 少年達の投げた石が、無抵抗の蜘蛛めがけてどんどん降り注いでいく。
 ――うーん、確かに……これはちょっと、やり過ぎだわ。気持ち悪いのは分かるけど、一応ひとつの命だし。
 子どもって無邪気だから、興味本位で虫を殺しちゃったりするのよね。
 他でやってほしいわ……。現場を目撃しちゃったじゃないの。私、こういう弱い者いじめみたいなのって、嫌いなのよね。
 仕方なく、私は子ども達に声をあげた。
「ちょっと、もういい加減やめなさい!」
 ――これが、蜘蛛との出会い。

 子ども達を追い払い、私はまじまじと蜘蛛を見つめた。真下から、斜めから、いろんな角度から眺めてみるけど、蜘蛛はピクリとも動かない。 
「……死んじゃった?」
『んなわけねーだろ』
 独り言にさっきの声が反応した。『じろじろ見んなよ』
 条件反射で辺りを見渡す私。子ども達も逃げていったから、園内には私しかいなくなっていた。
 ――まさか……ね。
 顔を引きつらせる私に、声は笑った。
『何やってんだよ、鈍感な女だな。今見てただろうが。ここだ、ここ』
 偉そうな声。
 私は恐る恐る幹にへばりつく蜘蛛を見上げた。
「……やっぱ、この声あんたなの? 蜘蛛」
『他に誰がいるよ』
 ……確かに。
 他に誰もいないことは再三確認済みだもんね。
『とりあえず、礼は言っとこうか。礼儀は重んじるんでね、俺』
 高みから見下ろすような物言い。あんまり感謝されている気がしない。
 ぶつぶつ文句を言っていた時よりもよく通るその声は、だいたい私と同い年くらいの印象だった。低く響くそれは耳心地がよく、普通に話していればきっと好感を持てただろうけど、なんだかこいつの口ぶりは棘があって釈然としない。
「……あんた何者? なんでしゃべってんのよ。ただの蜘蛛でしょ?」
『ああ』
「まさか……お、オバケなの?」
『あったま悪そうな発音だな。俺は魔だよ、魔=I』
 そう言うと蜘蛛は糸を使い、幹から離れ私の目の前へ滑り降りてきた。丁度視線の先に八つの目が見える。
 変な状況だけど、不思議ともう恐怖はなかった。それも、目の前の蜘蛛が必要以上に威張りまくっているせいかもしれない。
「……魔=H って何?」
『魔≠ヘ魔≠セよ。わかんだろ?』
「わかんないって。オバケとどう違うわけ?」
『お前らがよく言う妖怪とか、そうう奴のことで……ああもう、めんどくせぇ』
 面倒くさいって言われても……。
「んもう、よくわかんないから、やっぱ妖怪ってことでいい?」
『ったく。勝手にしろ。……ま、もうすぐ俺も消えるしな』
「……は? なんで?」
 突然の切り出しに驚く私。
『もう生きててもめんどくせぇんだよ。だるいっつーか』
「なにイマドキの若者みたいなこと言ってんのよ、蜘蛛のくせに」
『うるせぇ。人間が蜘蛛みたいな言葉をほざいてんだろ。みんな一緒だろ、考え方も、生き方も、命もな』
 なんか、蜘蛛のくせに立派そうなこと言ってる。
「要は、面倒くさいからって死ぬわけ?」
『まあな。最近は贄もねぇしなあ』
 ――にえ=c…?
「えっと……アイスくらいなら買ってあげられるけど?」
『はッ俺がそんなん食うかよ』
「あっそう。じゃあ、何なら食べるわけ?」
『――人間』
 ……は?
「な、なにそれ」
 思わず後ずさる。
『心配すんなって。お前は恩人だ、殺したりはしねぇよ。昔なら人間は全部エサだったけどな。俺を祀って生贄を寄越した土地もあったくらいだぜ』
 衝撃的な言葉。
 思わず眉をしかめた時、ふと蜘蛛の口元に目が行った。10本の足のうち、2本は口元から生えている。妖しく艶めくそれは他のものより小さく、蜘蛛の言葉に合わせて微かに動いた。足に見えたそれは――大きく発達した触肢だった。
 思わずゾッとする私。
「さっき言ってたにえ≠チて……生贄のことだったのね」
『ああ。だけど生贄なんて、昔からお前ら人間が率先してやってたことだろう? 口減らし……人柱……何かしらの名目をつけて同胞を殺してきただろう』
「そりゃ……昔はそういうこともあったかもしれないけど……」
『ま、俺が手を下さなくても、同胞殺しは今も昔もお前らの専売特許だけどな』
「そんなことあんたに言われたくないんだけど」
 睨みつけても蜘蛛は飄々としている。
『ふん。ま、要は弱肉強食ってことだ。――だけど、最近はハンターの野郎が勢力を伸ばしてきてなあ……今じゃ俺の方が狩られる側だ』
 自嘲じみた声。蜘蛛は風に吹かれ、頼りなく揺れた。
 最後の方の意味はよくわからなかったけど、蜘蛛の声には苦痛が感じられた。だからもしかしたら、蜘蛛の皮肉は虚勢の裏返しなのかもしれない……そう思えた。
 それに、蜘蛛は人を殺したとか言ってるけど、風に吹かれてへろへろになってるこいつが、その何十倍ものサイズの人間を食べる≠セなんて、土台無理。口から出まかせにしか聞こえない。
 そんなことを考えていると、私の中の蜘蛛に対する恐怖はすっかりなくなっていた。
『……おい、何見てんだよ』
「別に? なんか、あんたも大変なのかなと思って」
『ふん。この俺を憐れんでるのか』
「……そういうんじゃないけど」
 かわいくない奴。私がため息をついた時、
『おい。憐れだと思うんなら、ちょっと助けてくれよ』
「……え?」
『俺のこと、飼わねぇか?』
 なんかとんでもないことを言ってきた。
「飼う? なにそれ、冗談?」
『そんなわけねぇだろ』
「っていうか、クモならもうウチに何匹か棲みついてるし」
『はッその辺の雑魚と一緒にするなよ』
 鼻を鳴らし、蜘蛛は低い声で囁いた。『――取引しようぜ』
 嫌な予感しかしないフレーズ。
「……取引?」
『そうだ。悪い内容じゃねぇぜ』
 蜘蛛の目が光る。『俺はお前に命を助けられた。だから、今度は俺がお前を助けてやる。ただし、それにはお前のテリトリーに入る必要がある』
「テリトリーって?」
『お前の家だよ』
「ああ……それで飼う≠ヒ……。じゃあなに、ハエとか食べてくれるってこと?」
 茶化す私。てっきり蜘蛛からは罵声が返ってくるかと思いきや。
『虫なんかより大きいものだって食えるぜ……。例えばお前の嫌いな人間を駆除したり、な』
 低く響く声。
「駆除……って、なにバカなこと――」
『悪い取引じゃないだろ? 俺は棲みかを得られる、お前は嫌な人間を自分の手を汚さずに始末できる』
「始末って……そんなこと、頼むわけないでしょ!」
『ふん。とにかく俺を飼えばお前はいい思いができるぜ。人間が魔≠味方にできるんだからな』
 訳が分からない。それに、そもそもその話のどこに私の得があるのか。
「意味がわかんないわ……。だいたい、ずっとここにいたんでしょ? 人の家に転がり込まなくても、そのままここで暮らしていればいいじゃない」
『好きでこんな所にいるわけじゃない』
 苦々しく呟く蜘蛛。『ここじゃすぐに奴らに見つかる。人間のテリトリーにいた方がリスクが減るんだよ』
「奴らって?」
『ハンターだ。俺達魔≠狩る奴らだよ』
「狩る……って、つまりあんた、命を狙われてるの?」
『そうだ』
 ――なんかとんでもないことを聞いちゃった。
「そんなの……別に、私の家じゃなくても……」
『お前、自分が特別な存在だってことに気付いてないのか?』
「は?」
『俺達魔≠フ声が聴こえる人間ってのはかなり稀だぜ。だからつまり、今の俺には、お前しか頼る相手がいないってことだ』
 そんな風に言われても困る。
 さっきまでと違い、蜘蛛の口調からは皮肉さがなくなっていたけど、でもどこか自信あり気な、まるでこの状況を楽しんでいるかのような雰囲気が感じられた。
 やっぱり、信用できない……そう戸惑う私を見透かしたように蜘蛛が口を開く。
『逆に考えてみろよ、この取引、お前にとって損になる要素はあるか?』
「……あるわよ。あんたを追ってるハンターとやらに、私まで巻き添えで命を狙われたら――」
『それはあり得ねえ。奴らは人間には絶対に手出しをしない。そういう掟だからな』
「……掟って……」
『奴らはストイックな種族だからな。掟を破ることは死を意味する。だから昔から奴らは人間に隠れて魔≠狩ってたんだ。お前だって妖怪≠ヘ知ってても、それを狩るハンター≠ネんて知らなかっただろ?』
「……うん」
『奴らはとにかく自分達の存在を隠したいんだ。仕事をする時のリスクを減らすためにな。だから、奴らが自ら人間に接触するなんてことはあり得ない。お前は安全だ』
 そう言われても、散々人間をエサ≠セとか食べる≠ニか言ってた相手の言葉をすぐに信用できるわけがない。
「でも、あんたにとって人間はみんなエサ≠ネわけでしょ? ウチに入り込んで、私や私の家族を食べようとか思ってるんじゃないの?」
『ふん、莫迦言うなよ』
 嘲笑する蜘蛛。『テリトリーってのは主がいてこそ成立する、言わば結界だ。そんな安全地帯をわざわざ自分で壊すわけないだろ』
「安全地帯……」
『そうだ。つまり、俺にとってお前は主人≠セ。その主人の意にそぐわない狩りはしねえよ。テリトリーを追い出されたり、ましてや自らそれを壊しでもしたら、結果的に俺自身が危険に晒されるんだからな』
 そう言われると、なんとなく筋が通ってるような気もするけど……。
「……でも、やっぱりあんたの食事っていうのは人間……なわけでしょ?」
『主食はな。だから、そこで取引だ。お前のテリトリーを隠れ蓑にさせてもらう代わりに、俺はお前の気に入らない人間を駆除する』
「そんなこと頼まないってば!」
『そのうち気が変わるかもしれねえだろ』
 嗤う蜘蛛。なんて思考なの、こいつ……。
 ――ああ、なんでこんな奴助けちゃったんだろう。
 しゃべる蜘蛛を助けたら、もしかしたら昔話よろしく「蜘蛛の恩返し」とかそういうのあったりしないかな、と思ったのに……。
 なんかこいつ、どっちかというと悪い方の蜘蛛じゃない。口も性格も。
 こんなんじゃ、例えば映画みたいに、何かあった時かっこよく助けてるとか、そういうのもないんだろうなぁ……。
 色々考えすぎて頭が飽和状態の私。
『……おい』
 蜘蛛の低い声。『これでお前の不安材料は全部消えただろ』
 自信満々にそう言うけど、私にとってはまだすべてが不安のままよ。
『とにかく腹が減って死にそうだ。人間の食うものでいい……何かよこせ』
 ふてぶてしい態度。
「あのねえ、それがものを頼む態度なの?」
『ああ、悪かったな……ご主人サマ=x
 この言いぐさ……絶対莫迦にしてる、こいつ。
 でも、その気丈なセリフとは裏腹に、蜘蛛の声音はどんどん弱まっているように感じた。
 数秒間睨みつけてみたけど、もう蜘蛛は何も言わずに、ただ私の返答を待つかのように沈黙していた。
 ふいに、冷たい風が首筋を撫でる。
 そう言えば、公園に来た時は、家に着くのを待ちきれずにアイスを食べたほど暑かったのに、蜘蛛のいるこの木陰に来た途端、急に涼しくなったんだった。だけどそれは、周りの気温が下がったからじゃない。蜘蛛のいるこの一角だけが冷気に包まれていたからなんだ。
 蜘蛛が……冷気を出してるってことなのかも。
 それに気づいた時、私は、いつもクーラーがない自分の部屋で迎える夏の灼熱地獄を思い出した。
 私の部屋で蜘蛛がクーラー代わりになってくれたらすごく快適かも……なんて、私は浅はかにも一瞬思ってしまった。
 この瞬間、私はこの蜘蛛に……ううん、この蜘蛛の糸に――捕まってしまったのかもしれない。
「……わかったわよ、蜘蛛」
 小さくため息をつく。「一週間だけだからね」
 一応期限をつけてみた。
 その言葉を待っていたように蜘蛛は漆黒の肢体を揺らし、
『損はさせないぜ』
 と低く呟いた……。