作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 8.恵〜B〜

 ――目を開けた時、一瞬、目の前のそれが夕焼けに見えた。
「……!」
 俺は、思わず息を飲んだ。そこにあったのは、あの飼育小屋だった。二年前の火事で全焼し、撤去されたはずの小屋が今、眼前で巨大な火柱に包まれていた。炎は、凍てつく夜の校庭で陽炎のように揺らめいていた。
「ここは――どうして、これが……?」
 目の前の光景はあの日≠フ再現だった。
 生き物のように蠢く灼熱の炎、容赦なく皮膚を焼く熱波、煙る視界とむせかえる臭い。
 あの時、必死で火を消そうとしていた立花の背中を、俺はただ呆然と見つめているだけだった。忘れたくても忘れられない記憶……。
 しかし、ここに立花の姿はない。
 ――これは夢なのか? 現実なのか……?
 俺は、肌を焼く熱を感じながら、混乱していた。その時。
 燃え盛る炎の中に、逃げ惑う小さな影が見えた。
「!」
 動物がいる……?
 小屋は完全に炎に包まれていたが、まだ中まで火は到達していないのかもしれない。――まだ、生きている動物がいるかもしれない!
 そう思った瞬間、俺は小屋の入口へ駆けていた。炎になぶられ真っ赤になった鉄の扉を掴む。
「……ッつゥ!」
 ジュッという嫌な音と共に、手の平に激痛が走る。肉の焦げた臭いがする。
 ――くそ!
 呻きながら、俺は両手で小屋の扉を掴んだ。鍵はかかっていなかったが、錆びつき歪んだ扉は、両手で力を入れなければ開けることができないのだ。
 舞い上がる火の粉が容赦なく俺の肌を焼き、髪がぶすぶすと燃える。焦げ臭い臭いが鼻をさす。熱と煙で両目が激しく痛み、涙で視界が歪んだ。
 ……熱い。――痛い。
「ううぅ……ッ!」
 真っ赤な炎が揺らめく中、きしんだ音を立て、扉が開いた。
 片腕で煙を吸い込まないよう口元を覆いながら、俺は広い小屋に駆け込んだ。強烈な熱波に視界を塞がれ、焦げ臭い異臭が強さを増した。
 全てが赤く染まった小屋は、巨大な炎のトンネルのように見えた。ウサギ小屋の餌箱や水呑場にまで、炎は容赦なく襲い掛かっていた。
 火の勢いからいって、まず奥のにわとりはもう手遅れだろう。どのみち、そこへ通じる柵を壊している時間は無い。
 俺は、煙と炎でくらむ目を必死で凝らし、さっきの影を探した。隅に、嫌な音をたて燃え続けるいくつかの骸が見える。
「そんな……」
 ――もう手遅れだったのか……?
 絶望的な思いで小屋を見回した瞬間、前方に、横たわる一匹のウサギを見つけた。真っ黒なその姿はオレンジ色に照らし出され、硬く目を閉じ、荒い息をしていた。
「――クロ!」
 俺は、4匹の中で一番小さかったこのウサギの名を叫んだ。
 一番小さいこのコ、真っ黒だからクロって名付けたんだ
 あの時、嬉しそうにそう話していた立花。
 僕に一番なついてくれてるんだ。可愛いよね……
 駆け寄り、俺はその小さな体を抱き上げた。微かに上下する和毛と、手に広がるぬくもりを感じ、俺はほっと息をついた。その瞬間。
「……!」
 ふいに呼吸ができなくなり、俺はその場に膝をついた。
 ――煙を吸ってしまった……!
 手足が思うように動かなくなった俺は、クロを抱きしめた格好のまま、うつ伏せに倒れた。それでも、なんとか意識を保ち、這いながら振り返った俺の目の前にあったのは、炎の壁だった。
 たった今通ってきた扉が炎に包まれている。――出口が、完全に無くなっていた。
 小屋を覆う炎は勢いを増し、俺の足元を、頭上を、容赦なく焼いていく。
 俺は、逃げることもできず、クロを抱いたまま、じわじわと熱に蝕まれていくのを感じていた。
 ああ……ここで、俺は死ぬのか……。
 立花……苦しいよ。痛いよ。こんな辛い思いを、お前は、したんだな……。
 ふいに、熱に耐え切れなくなった眼鏡が音を立てて割れた。レンズの亀裂で、視界が二重に映る。
 薄れる意識の中、俺は、小屋の外――夜の闇に白く浮かび上がる、立花の姿を見た。立花を覆う青白いもやは、炎に共鳴するかのようにゆらゆらと揺らめいている。
 ――立花……?
 立花は、虚ろな表情で俺を見ている。
「……た、すけ……」
 言いかけて、俺は勢いよく咳き込んだ。煙と火の粉が容赦なく肺へ侵入する。手足が鉛のように重くなり、耳鳴りがする。
 助けてくれ……立花
 あまりに身勝手すぎるその言葉を、俺は立花に訴えようとしていた。
 灼熱の炎の中、抗えない力で、俺の瞼は閉じられていく。
 ――これが、俺の受ける復讐なのか……。
 段々と意識が薄れていく。
 俺は、最低な奴だった……。あの時も、こうして小屋に飛び込んでいれば……立花と一緒に火を消していれば……。今ならそれができるのに。あの時、どうしてそんな簡単なことができなかったんだろう……。
 他人も、他人の命も、きっとどうでもよかった。あの時の俺は、本当に自分のことしか考えていなかった。
 人から言われた価値観、人が敷いたレールを、正しいと信じていた。そんなものを、自分のステータスと思い込んでいた。それを守るためなら、他人などどうでもいいと思っていた。
 どうして、そんな虚しい生き方しかしてこなかったんだろう。そんな生、死ぬ時はこんなに後悔するものだというのに……。
 あまりに幼すぎた、くだらないプライドにこだわりすぎて大切なものを見失っていた……そんな俺が、お前を殺してしまったんだ……立花。
 ここで、俺は死ぬよ。だから、もう……復讐なんて、俺で終わりにしてくれ……。
 立花の優しい笑顔を思い出しながら、俺の意識は、そこで――消えた。



「――さあ、最後は茂や」
 真夜中の屋上で、浅倉は金城に向かって不適に笑んだ。「ここから、立花が味わったのと同じ苦しみを味おうてもらうで」
 凍てついた風が吹き荒れる屋上で、金城は浅倉と立花に詰め寄られ、逃げ場を失っていた。じりじりとフェンス側に追いつめられ、腰の抜けた金城は、悲鳴をあげながら仰け反った。
「……立花、殺したいほど憎んでたんやろう? ……じわじわとやったったらええねんで」
 浅倉の言葉に、金城を見つめる立花の赤い瞳が、鋭い燐光を放った。
 ――校庭に佇む桜の木。そこに残る花弁は、あとわずかである……。



「――冬堂君ッ! 冬堂君ッ!?」
「目を開けてッ……冬堂君!!」
 …………。
 ……。
 ――?
「……ッ――」
 どこか遠くで甲高い声が響いている。
 トウドウ=c…?
 それは……俺の名前が。誰かが呼んでいる……?
 そう思った瞬間、まるで深海の底から引き上げられたかのように、急激に音がクリアになった。
「冬堂君!」
 声を頼りに目を開けると、定まらない視界の中に、真壁と中務が見えた。
「……ま、かべ……」
 熱で喉が焼かれたせいか、掠れた声しか出ない。それでもなんとか身体を動かそうとした瞬間。
「――……ッ!」
 全身を、信じられないほどの激痛が襲った。
「動かないで――酷い火傷よ」
「目が覚めなかったら……どうしようかと思ッ……」
 ふいに泣き出す真壁。
 ――いつも笑顔だった真壁が……泣いている……。
 俺は……生きているのか――一体……どうして?
「……!」
 ――クロは……? 俺が助けられなかった、小さな命たち……。
 思い出し、俺はしっかりと抱きしめていた腕を、痛みに耐えながらゆっくりとほどいた。俺を抱き起こしている中務が、心配そうにその行方を見守っている。
 ボロボロに焼け焦げた俺の腕の中に、クロは――いなかった。
「冬堂君……ここで倒れてたのよ。その火傷……立花君に?」
 中務の問いかけに、俺は力なく頷いた。
「飼育小屋が……火事で……。ウサギを……守ろうと……」
「ウサギ……?」
 泣きながら、真壁が俺を見下ろす。
「だって……飼育小屋は、もう随分前に焼けて――」
「……日菜子」
 中務の制止に、真壁は小さく頷いた。その配慮がありがたかった。
 俺も、気づいてはいたんだ――過去が取り戻せないことくらい……。罪も思い出も、二度とやり直しなどできないことを……!
 だけど、俺はあの時、浅倉の言葉に――チャンス≠ノすがったんだ。あり得ないとわかっていても……。
 ――だからあれが立花の復讐なら、俺はあそこで死ぬんだと思った。あの炎は現実だった。
 なのになぜ、俺はまだ生きているんだ……?
「……冬堂君、歩ける?」
 中務が心配そうに俺を覗き込む。美しく鋭い瞳が、しっかりと俺を捉えている。
「……ああ。――金城……は?」
「それが、まだ見つからないの……。でも、とにかく冬堂君は早くここから逃げて。安全なところに」
 中務の言葉に、俺はゆっくりと首を振った。
「……いや、俺は……行く」
 無理に上半身を起こそうとした俺は、また激痛に襲われ呻いた。
「行くって……どこに?無茶だわ、こんな酷い怪我で……」
「そうよ……死んじゃうわ」
 二人が俺を支えながら制止する。
 だけど、俺はもう……一度は死んだ人間なんだ。このくらいの痛み、クロや……立花に比べればどうってことはない。だって俺は、まだこうして生きているんだから。
「俺は……行く。立花は……きっと、屋上だ」
 そこで俺は、ゆっくり二人を見た。「……手を、貸してほしい」
 俺の言葉に一瞬戸惑うような表情を見せたが、二人は、力強く頷いた。
「ええ……行きましょう。こっちに掴まって」
「ゆっくり進もう、大丈夫?」
 真壁と中務に支えてもらいながら、俺は――いや、俺達は、闇に沈む新校舎へ向かった。