9.最終話:夜明け
真冬の風が、肌にキリキリと痛む。吐く白い息が混ざり合い、闇に消えていく。
人気のない校庭に、俺達の不規則な足音が響いた。
――激痛と息切れに耐えながら、やっとのことで昇降口まで辿り着いたその時、俺達の頭上から、叫び声と共に一足のスニーカーが落下してきた。スニーカーは弾みながら、俺達の真横を転がった。
「……金城君!」
屋上を見上げ真壁が叫ぶ。
夜空の月に照らし出された屋上。そのフェンスの外側に、金城がしがみついているのが見えた。その身体は風に煽られ、両足が闇に投げ出されていた。
「あァ……ア」
言葉にならない奇声を発しながら、金城は必死でフェンスに指を絡めた。声を上げる度、吐く息が白む。
「危ない……!」
「早く行かなきゃ!」
叫ぶが早いか、俺達は校舎に駆け込んだ。
――その背後で、桜の木は静かに揺れ、花びらが横たわるスニーカーの上にゆっくりと舞い落ちた。
体中が痛い――だが、そんなものには構っていられない。
――やめてくれ、立花……!もう、終わりにしてくれ……!
俺達は息を切らしながら、長い階段を駆け上った。
一階……二階……。三階……。
「この上よ、早く!」
中務の声に、俺は気を失いそうな激痛に耐え、必死で足を動かした。
目の前に、屋上への扉が現れる。
俺達は三人同時に、勢いよくドアを開け放った。
「――立花……!」
月光を背に、立花はゆっくりと振り返った。その目は炎のように赤く燃え上がり、異様な燐光を放っていた。
「……なんや、もう来たんか」
つまらなそうな声が背後から聞こえ、俺達は驚いて振り返った。俺達が開けた扉に寄り添うように、浅倉が腕組みをして立っていた。
「……せやけど、邪魔したらあかんで。立花の復讐が終わる瞬間や、よう見とき」
「立花ッ?」
再度振り返ると、立花は金網の向こうにいる金城の元へ、ゆっくりと進み始めていた。
「やめて! 立花君」
「やめなさい!」
中務が叫ぶ。「浅倉君……あなた、一体どういうつもりなの?」
「どういう、やて?」
中務の瞳が光る。
「あなた……生きてる人間じゃないわね?」
「……!」
真壁が息を呑むのが分かった。
浅倉が不適に微笑む。――真実のようだ。
「どうして……お前が立花に……加担するんだ……! お前は何も、関係ないだろう」
「いいや」
浅倉は、ふっと寂しそうな表情を見せた。「全く関係無いっちゅうことはないんや。俺も……な」
「……?」
いぶかしがる俺達をよそに、立花はフェンスに辿りついていた。赤い瞳で、喘ぐ金城を見下ろしている。
「! 立花……」
駆け出そうとする俺を、浅倉が制した。
「お前には、何にもできへん」
「……そんなことはない!」
俺は立花の背に叫んだ。
「立花! ……さっき、どうして……俺を殺さなかったんだ」
青白い炎に包まれた立花の背が、わずかに揺れた。
「立花、俺を……殺してくれて構わない。それで……復讐は、終わるだろう?」
「……冬堂君?」
「何、言ってるの?」
真壁と中務が怒ったように声を上げたが、俺は気にしなかった。
「俺は、一番卑怯なことをした。立花を傷つけて、自殺するほど追いつめたのは、きっと俺だ……」
気付くと、俺は泣いていた。「……ごめんな、立花。復讐は、俺だけで十分だろう?」
「――違うわ……!」
真壁が声を上げる。「立花君……ごめんね、私が悪いの……みんなの前で酷いことを言って傷つけたのに、この二年間それを忘れたふりをして生きてきた……。一番卑怯なのは私なの。死んでしまうほど苦しめてしまって、本当にごめんなさい……」
しゃくりあげる真壁。中務が彼女の背中を撫でる。
立花が、ゆっくりと俺達の方を向いた。憎しみに揺れていた瞳が、冷たいガラス玉のようになる。
その背後から、フェンスにしがみつく金城が大声を上げる。
「おおぃッおまえら……助けてくれよッ早く!」
汗に手を滑らせながら、金網をよじ登ろうともがく金城。
「金城君……!」
駆け出そうとする俺達の足に、青白い冷気が巻きついた。
「!」
途端に身動きが取れなくなる。
「立花……やめてくれ!」
「お願いよ、立花君……!」
俺と真壁の叫びにも、立花の瞳は動かなかった。ただ、悲しそうな表情で俺達を見つめる。
――立花……なぜ、そんな悲しい表情をするんだ?
立花は、俺達を憎んでいるから、復讐しようとしたんじゃないのか?
その時、俺は思い出していた。立花が、いじめに遭っていても他人を気遣う優しい人間だったことを。
「あのなあ、ちょっと断っとくけど」
朝倉がため息交じりに言う。「みんな、ほんまに立花が自殺≠オたと思っとるんか?」
「……?」
俺達は驚愕の瞳で浅倉を見た。彼は真顔で続ける。
「自殺の証拠はあったか? 遺書でも書いてあったか?」
……そんなものはなかった。
そうだ、俺達は立花がいじめられていたことを知っていたから、それを苦にしての自殺≠セと思い込んだ。
だけど……。
俺に、嬉しそうに目標≠語っていた立花の姿を思い出す。
――あんなに強い意思を持って未来を見据えていた立花が、自殺なんてするだろうか?
しかも、遺書も何もなく……。
遺書がない以上、自殺ではない可能性は、ゼロではなかったんじゃないのか……?
俺は息を飲んだ。
「じゃあ……立花の死は、事故か……」
「他殺……?」
中務のその言葉に、浅倉が鼻を鳴らす。
「ああッ! 手が……すべるッ! くっちゃべってねぇで、早く……助けろよ、なあッ! 誰かッ」
フェンスの向こうで、金城が喚く。
「あ〜あ、立花……せめてそのうるさいのだけでも、ちゃっちゃと始末してもたらどうや?」
ため息をつく浅倉。「ずっとお前をいじめて、そして最後には、お前を殺した奴やで?」
――!!
俺達は凍りついた。
立花は……金城に殺された?
浅倉の言葉に、金城が叫ぶ。
「ちッ違う! あれは、事故だ、ふざけてただけだ……なぁッそうだろ、立花!」
再び、立花の瞳が燐光を放ち始める。
「どういうこと……浅倉くん」
中務の問いに、浅倉は立花の方へ歩きながら答えた。
「どうもこうも……二年前の今日、工事の足場が組まれていたここに、夜、シゲは金をせびるために立花を呼びつけたんや。立花が金を用意できんかったことを知ったシゲは、逆上して立花を殴りつけ、突き飛ばした」
――この屋上から。
「ち……違うッそんなつもりじゃ……あの時は、足場のせいでフェンスが取っ払われてて……ッあそこには、フェンスがあると思ってたんだァ……!」
涙声になる金城。
「ほんまにそれだけかぁ?」
立花の隣に立つ浅倉。「シゲに殺意はなかったっちゅうんか?」
「あるわけないだろッ……頼むよ、助けてくれよ!」
汗だくになりながら金網を掴む金城。
浅倉は立花の肩に手をかけた。
「ほんまに、許せるか? 立花」
赤く燃える瞳で浅倉を見上げる立花。
「飼育小屋の火事の件だって……あれは、ほんまは三年の不良が投げたタバコのせいや。立花はなんにも悪くない。それやのにシゲは、立花のせいにして、いじめてきよったやろ」
――!
「違う、それは俺がそう言っ――」
「黙っとけや!」
俺の言葉を浅倉が大声で制した。「……立花に聞いとんねん。今はシゲの番なんや」
――金城の番……?
俺達それぞれを許せるのか……こうやって立花は、一人一人試していたというのか?
「悪かったよ……立花、許してくれよ……本気じゃなかったんだって……」
喘ぐ金城の片手が滑り、身体半分が宙に投げ出される。
「やめて、立花君、お願い……!」
半ば悲鳴のように叫ぶ真壁。
「こんなことしても、今よりもっと苦しむだけよ……立花君」
冷静に言う中務。
「立花……君は人にも動物にも優しかったよな……。そんな君に、酷い思いをさせた俺達は……恨まれても仕方がないと思う」
俺は、一言一言、言い聞かせるように言った。「……だけど、こんな形で命を落とす金城を、見て見ぬ振りができるのか? こんな風に金城の命を奪って……立花は、それで、平気なのか?」
立花の虚ろな表情が揺れ動く。
「た……立花ッわ……悪かったよ、ごめんな……立花ッ! 許して……くれ……」
泣きながら叫ぶ金城。
「……どないするんや?」
浅倉の問いかけに、立花はゆっくりと目を閉じた。
「……もう、いいよ……浅倉君」
囁くような小さな声で言い、立花は肩を落とした。「もう、やめよう。冬堂君達の足かせも、解いてあげて……」
頷き、浅倉が片手を上げると、俺達を取り巻いていた冷気が消えた。
――俺達を足止めしていたのは立花ではなく、浅倉だったのだ。
中務と真壁がフェンスに駆け寄り、金城に手を貸している。
俺は痛む足を引きずりながら、浅倉の元へ向かった。
「浅倉……お前、一体何者なんだ?」
その問いに、浅倉は皮肉を湛えた笑みで言った。
「俺は、もうずうっと昔からここにおる、この学校の生徒や。名前は本名やけど、ほんまにはおらへん。バイク事故で死んだんや、お前らと同じ学年の時に」
――中学校≪ここ≫にずっと昔からいた、霊……?
俺達は思わず声を失った。
浅倉は続ける。
「学校っちゅうところには、もともとぎょうさん霊がおる。せやけど、幽霊の復讐伝説≠ネんて出来上がったんは、二年前からや。まあきっと、立花が死んだことにみんな何かしら罪悪感があって、それがそんな都市伝説みたいなモンを生んだんやろうなあ」
夜空を見上げる浅倉。
「……まあ、いくらなんでもそんな噂話なんかで霊は呼べへん。……せやけど、死んでからも苦しむ立花を見とったら……あまりにも哀れになってきてな。せやから、俺が手助けをすることにしたんや。今夜だけみんなの記憶を操作して、同級生のフリしてな」
そこで、浅倉は寂しそうに微笑んだ。「……まあ、あんな心の優しい奴に復讐なんて、端から無理やとは思とったけどな」
中務と真壁によって引き上げられた金城は、ふらつきながらも一目散に土下座をした。
「立花……ごめん、本当に、悪かった……!」
――亡くなってからも、立花は苦しんでいた……。
その言葉が、俺達の心に重くのしかかった。
「立花君、ごめんなさい……」
「立花、本当に……ごめん……」
頭を下げる俺達を眺め、立花はいつもの優しい声音で言った。
「もういいよ……。確かに、死んでしまったことはつらかったけど……」
そこで一旦言葉を区切り、「もっと辛かったことは――みんなが、僕のことを忘れてしまったことだったんだ」
俺達ははっと顔を上げた。
優しい、それでいて深い悲しみを湛えた瞳で、立花は言った。
「僕は本当は、みんなに復讐したいわけじゃなかった」
立花が真壁を見る。
「ただ、僕のことを……忘れてほしくなかった」
夕日に照らされたあの廊下、ペンを受け取った手の平の重み、温かい笑顔を交わしたあの日――。
静かに泣きながら、真壁は頷いた。
「……もっと、仲良くしたかった」
俺を見る立花。
初めて話し込んだ夕暮れのあの日、何も疑うことなくお互いを尊敬することができた、あの瞬間。
もしあの時、変なプライドを持たずに歩み寄ることができたなら、対等な友情を分かち合うことができていたのだろうか。そんな未来も、あったのだろうか……。
俺は、失ってしまったものの大きさを改めて感じ、涙を流すことしかできなかった。
「そして……もっと生きていたかった」
見下ろす立花と目が合った時、金城は呪文のように謝罪の言葉を繰り返しながら、額を地面に擦りつけた。
「……そんな僕の思いを、ただ知ってほしかっただけなんだ」
立花の視線を受け、中務がゆっくりと頷いた。
「僕は、誰のことも恨んだりしていない。そんなことをしても、誰も……僕自身も、幸せにはなれないって気づいたから」
立花の寂しげな声が夜の闇に響く。
「……つくづく、甘いなあ、立花は」
ため息をつく浅倉に、立花は笑みを返した。
「これは、浅倉くんが教えてくれたんだよ」
立花は虚ろな表情に戻ると、金城を見下ろした。
「でも、これだけは覚えておいてほしいんだ……。いじめている方は、ちょっとからかっているだけのつもりでも、いじめられている方は、死ぬほど苦しいんだよ」
「……ッめんなさい……」
土下座したまま嗚咽を漏らす金城。
「――私も、見て見ぬふりをしてた……ごめんなさい」
泣きながら謝る真壁。
「俺こそ、卑怯なことをして、本当にごめん……」
謝り続ける俺達を眺め、立花は静かに言った。
「……みんな、忘れないでね。僕のこと……」
顔を上げると、立花は寂しそうに微笑んでいた。
「ああ……忘れない……」
「ごめんなさい……――ありがとう、立花君」
啜りあげながら呟く真壁。
「……あなたが心の優しい人だったってこと、覚えておくわ」
頷く中務。
「ごめんな……立花」
ゆっくりと立ち上がる金城。
「――さようなら」
立花は柔らかく微笑んだ。
「立花……!」
俺は思わず叫んでいた。
次の瞬間、立花の姿が明るい光に包まれたかと思うと、闇の中に溶け込むようにして、ゆっくりと消えていった。それはまるで夢のような一瞬だった。
――これが、立花との本当の別れだった……。
「……空が……」
誰ともなく呟いたそのセリフに、俺達は一斉に空を見上げた。永遠とも思えた長い長い闇夜が、今、美しい藍色に染まっている。
「もうすぐ、夜が……明けるんだ」
オレンジ色に輝き始める地平線をぼんやり眺めていた時。
「……浅倉君がいない!」
「!」
朝陽に照らし出された屋上に、浅倉幸浩の姿はなかった。
「消えた……?」
きょろきょろと辺りを見回した時、ふいに真壁が叫んだ。
「……あ、じゃあ、あの桜はどうなったの……?」
「!」
俺達は顔を見合わせ、一斉に階段へと駆け出した。
一階まで階段を下りる時間がもどかしく感じる。
俺は、身体中の痛みに耐えながら、とにかく必死で走った。
――空が明るくなると同時に、闇に包まれた校庭もベールを脱ぐようにクリアになっていく。
俺達は、やっとのことで一階に辿り着くと、桜の木の元へ駆け寄った。
朝陽に照らし出された裸同然の桜の木と、それに凭れかかる浅倉がいた。
「……あと、数枚ってところや」
浅倉が木を見上げる。
桜の木は、凍てついた朝の空気に包まれなら、剥き出しの枝先にわずかな花びらを残していた。その足元には、美しい桜色の水溜りが揺れている。
「立花、行ったみたいやな」
花びらを手に取り、呟く浅倉。
「ああ……。立花は、成仏…をしたのか?」
俺の問いに、浅倉は小さくかぶりを振った。
「いいや。先に罪を償いに行ったんやろ。生者を危険にさらすのは、立派な罪やからな。……ま、それも立花自身のが決めたことや。ちゃんと償えるやろ」
中務が一歩前に進む。
「あなたは……これからもずっと、ここにいるの?」
「……さあなぁ。今まで気ままにおっただけやからなあ」
「――もしかして、浅倉君も……誰かのことを恨んで……?」
真壁の言葉に、浅倉は微笑んだ。
「ちゃう、ちゃう! 俺は誰のことも恨んどらへん。……まあ、死んだ時はさすがに心残りっちゅうのはあったけど……。そんなん、もうかなり昔のことや」
しんみりする空気を打ち払うように、浅倉は俺達に向き直った。
「――ほな、そろそろ俺も行くわ」
浅倉の、少し長めの茶髪が風になびく。彼の足元に溜まっていた花びらも、ふわりと舞い上がった。
「浅倉君、……元気でね」
真壁のセリフに、浅倉が可笑しそうに微笑んだ。
「幽霊に元気で′セわれてもなあ」
「……でも、本当に……元気でな」
浅倉の目を真っ直ぐ見ながら、俺は言った。
「じゃあな」
浅倉は笑顔で俺達に手を振ると、疾風と共に姿を消した。風は勢いよく俺達の間を通り抜け、枝にわずかに残っていた桜の花びらを全て散らして消えていった。
「――朝日……」
真壁の指差す先に、一筋の明るい光が伸びていた。光はやがて、放射線状に幾重も広がっていき、青い空を一瞬にして金色に変えていった。目映い閃光が両目を貫く。
「……――終わったんだ……」
誰かの呟いたセリフに、俺達は始めて集合した時の様に、一斉に桜の木を見上げた。あの時と違うのは、紛れもない俺達の心と、そして……満開だった花びらが、一夜のうちに全て散ってしまったという、伝説さながらの情景だった…………――。
――春。
こうして俺は、今日、念願の有名進学校へ入学することとなった。
あの後、俺は重度の火傷で長期入院を強いられることになったのだが、特に後遺症もなく、その後、見事第一志望の高校に合格することができた。
中務晶は、私立の全寮制の女子高に進学した。霊感があるせいで、幼い頃から両親と不和なのだという。
――でもね、大丈夫よ。両親にも理解してもらえるように、努力するわ。私はひとりじゃないって気づけたから、諦めずに頑張ってみようと思うの
そう言う中務の瞳は、少し寂しそうな、それでいて強い決意の色で溢れていた。これからも、彼女は俺たちには想像のつかない恐怖と闘いながら生きていくのだろう。――今回の件で、俺は目に見えないものの存在と恐怖を認識した。
真壁日菜子は、兼ねてから志望していた、新聞部の盛んな高校へ無事合格した。
もっともっと腕を磨いて、将来は絶対にプロの記者になるんだ
それが、真壁の口癖である。
あの日の取材は、当然のことながら記事にすることはできなかったのだが、取材よりも大切なものを得ることができたという真壁の意見には、俺も同感だ。
俺達は、俺達以外の誰にも、あの出来事を話していない。後悔を伴う思い出を抱きながら、それを決して忘れずに、前を向いて歩いていくことが、俺達の最善の道なのだと思った。
ただ、金城の、あの夜の瞳を思い出すと、未だに少しだけ胸が痛む。
――ちゃんと罪を償ってくる……じゃあな
覚悟を決めた、少しさびしげな表情で呟いた金城。
金城が警察に行ったことで、立花の事件はマスコミによって生々しく掘り下げられ、一時期、学校は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
あの夜から三ヶ月……学校はまだ完全には落ち着きを取り戻せていなかったが、俺達三人は、無事中学を卒業した。
――ただ、不思議なことに、あの夜以来、誰もあの関西弁の少年の名前を思い出すことができないでいた。皮肉な声は耳に残っているが、風貌はおろか、顔すら思い出すことが出来ない。
……それでも俺達は、きっと、あの夜のこと――立花のことを、一生忘れることはないだろう。
直接的でないにしろ、各々の行動が人を傷つけ、結果、大切な級友を亡くしてしまったことは、命の重さと、自分の行動に責任を持つことの大事さを俺達に教えてくれたから。
――だから、きっと忘れない。決して、同じ過ちを繰り返さない。
俺は、顔を上げ、ゆっくりと高校の校門をくぐった。
満開の桜が出迎える、春。
俺は、もう、暗闇に逃げ込むことも、自分の世界に閉じこもることも、しない。
立花のように、広い視野で、人と関わって学んでいこう。
自分自身と……そして、共に歩んだ友人を信じて。
生きていこう、――俺自身で決めた道を……。
〜エピローグ〜
――数年後の春。
恵達の母校の中学校で、入学式が行われていた。真新しい制服に身を包んだ学生達が、期待に満ち溢れた表情で次々と校門をくぐって行く。
ふと、大勢で連れ立って歩いていた女子生徒の一人が、校庭にある裸の桜の木を指差し、眉をひそめた。
「……ねえ、もしかして、あれ? 例の復讐の桜≠チて」
「昔ニュースで見た、その傍なんでしょ、男子生徒が転落したの」
「え、怖〜い!」
「この桜だって、本当に一度、一晩で全部散ったらしいよ。お姉ちゃんが言ってた」
「マジ? じゃあ誰かが復讐されて……?」
そこで一旦押し黙った一同だったが、
「……なんかさ、ちょっと面白そうじゃない?」
一人が、怖がる友人をつついた。「試してみない? 本当に、伝説通りのことが起こるのか」
「……え〜っ! やめようよ」
「そうだよ、殺人があった場所だよ。呪われたらどうすんの」
「大丈夫だって。それに今はまだ咲いてないし〜ね、いいでしょ?」
尻込みする友人をけしかけ、「――じゃあ、今日の夜中に、みんな校門前に集合ね! 決まりッ」
勝手にそう告げると、その女生徒は足取り軽やかに講堂へ駆け出した。
「あ、待ってよ、ちょっと!」
「マジでやるの!?」
それを追いかける少女たちを見送りながら、裸の桜は、率先して指示を出した先の女生徒の背後に、異様な影を捉えていた。
「――まったく、何かしら抱えとるモン≠オか惹かれへんのかいな、この木は」
裸の桜の木に寄り添い、茶髪の少年はため息をついた。「……どうやら伝説≠ヘ、まだまだ終わらへんみたいやで?」
そう言うと、少年は、桜の花が舞い散る校庭で、人知れず不適に笑った……。