作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 6.日菜子〜A〜

 ――ガシャァン!
 けたたましい音と共に窓ガラスが割れる。粉々に砕け散った破片が、遠くの街灯にキラキラと輝きながら、木製の教卓と共に外の闇に消えた。
「きゃああッ」
 叫びながら、日菜子は教室の隅へ走った。その背を、宙を舞う椅子が踊るように追う。
 闇に包まれた1年F組の教室は、暴れ狂う家具で混沌と化していた。その中にひとり悠然と佇む立花。彼の浮かばれない憎悪が暴走し、教室内の物体に浮力を与えていた。
 メチャクチャに飛び交う机を寸でのところで避け、日菜子は狭い教室内を四方八方へ逃げ惑った。窓際に追いつめられた日菜子が紙一重で避けると、一直線に飛行していた教卓が窓ガラスを突き破り、鈍い音を響かせながら校庭に落ちた。
 青白いもやに包まれた立花は天井に浮き上がり、恐怖に泣き叫ぶ日菜子をじっと見下ろしていた。その瞳は、まるでガラス玉のように空虚で、冷たかった。
 日菜子がふいにバランスを崩して転倒すると、椅子が、その残像を追うかのように、勢いを増したまま壁に激突した。轟音と振動が室内に響く。
 日菜子は、短く叫んでうつ伏せのまま耳を塞いだ。
 ――助けて……。誰か……!
 確かに私は酷いことを言ったわ……でも……あの時の私には、ああするしかなかった。それはみんなも同じ……みんな、自分がいじめのターゲットになるのを恐れてた。私だけじゃないのに……!
 泣きながら、日菜子は歪む視界の端に、異様な雰囲気を放つ黒板を捉えた。色とりどりのチョークで濃く描かれた、日菜子と立花の相合傘、数々のひやかしの言葉。そのどれもが、まるで恐ろしい魔物を呼び寄せる呪文であるかのように禍々しく輝き、怯える日菜子をより一層萎縮させた。二度とやり直すことのできない過去がそこにあった。
 絶え間なく続く轟音と衝撃。
 ふいに、傍の壁に激突した机が、方向を変え日菜子の眼前に迫った。
 ――!!
 恐ろしさに固く目を瞑った日菜子だったが――なぜか、次に予想していた衝撃は起こらなかった。
「……?」
 ゆっくり目を開けると、室内の家具はすべて闇に浮かんだ状態で静止していた。奇妙な静寂に包まれた室内。
 恐る恐る身を起こすと、頭上に、青白い顔を向ける立花がいた。虚ろな瞳で見下ろすその姿は、さきほどの血にまみれたものではなく、いじめを受け痛々しい姿になっていたそれでもなく、あの日、夕日に照らし出された廊下で出会った、立花優の姿だった。
「立花君……」
 力なく呟く日菜子の声に呼ばれるように、立花はゆっくりと目の前に降り立った。無表情なその頬に、一筋の涙が伝い落ちる。
「……!」
 それを見た時、不思議なことに、さっきまでの恐怖が消え去るのを日菜子は感じた。代わりに、胸を締め付けられるような切ない感情に襲われる。
 そうだ……さっき、立花君は悲しかった≠ニ言った……。
 夕日に照らし出された、彼の弱々しい微笑みを思い出す。
 ――あの時、確かに私と立花君は対等だった。ううん、彼は誰よりも優しかった。私の大事なものを届けてくれた、自分と話すことで私まで目をつけられるかもしれないと心配してくれていた。それでも、お礼を言うと嬉しそうに笑ってくれた。あの瞬間だけは、いじめや外聞は関係なく、私達は、ただのクラスメートに戻れていた……。
 そんな立花君に、私はあんな酷いことを言った……彼を傷つけた。
 率先していじめていたわけじゃないけど、私はずっと見て見ぬふりをしていた。そして、自分を守るためだけに、あの時、みんなの前で立花君をいじめた。
 私は、恨まれて当然なんだ……それだけのことを、立花君にしてしまった。
 ――でも、私はまだ、彼に伝えていないことがある。心の底から、今、彼に言うべき言葉がある。この言葉だけは、最後にちゃんと伝えなくちゃいけない。
 目を閉じ、日菜子は初めてこう呟いていた。
「……ごめんね。立花君……」
 次の瞬間、宙で静止していた家具がぐらり、と揺れ、一斉に床へ落下した。けたたましい轟音と衝撃に、日菜子の悲鳴が掻き消される。
 残響と砂埃に包まれる教室。
 再び静寂が訪れた時、ゆっくりを目を開けた日菜子の前に、立花の姿はなかった。
「え……?」
 黒板の落書きも消えている。
 ――どういうこと……?
 呆然と立ち尽くす日菜子。
 その時。
「……日菜子!」
 教室の扉が勢いよく放たれ、晶が駆け寄ってきた。
「日菜子、大丈夫? ――これ……」
 室内の惨状に息を飲む晶。
「怪我はない……? 日菜子」
 心配する晶の声を懐かしく感じた瞬間、日菜子は安堵し力が抜けた。
「日菜子!?」
 崩れ落ちそうになる日菜子を支える晶。
「……晶ちゃん……」
「ごめんね、日菜子……。私がもっと早く日菜子の様子に気付いていたら、こんなことには……」
「――違うのよ、晶ちゃん」
 晶に支えられながら、日菜子はきっぱりと言った。「私が悪いの……私が立花君を傷つけたから……」
 それなのに私は一度も、立花君に謝ることさえしなかった。
「私のせいで、立花君は死んじゃったのかもしれない……ずっと心のどこかでそう思ってた。だから本当は、一人でここに来たくなかったの……でも、部員に押し付けられて、断れなくて……」
 涙ぐむ日菜子。「だから取材のためって言って、無理に晶ちゃんを誘ったの……。ごめんね、晶ちゃん、こんなことに巻き込んじゃって……」
 晶は、震える日菜子を黙って抱き寄せた。
「謝るのは私よ……。感情を失くすほど傷ついてる日菜子に気付いていたのに、私は今まで何もしてあげられなかった……」
 唇を噛む晶。「私は臆病で……傲慢だった。日菜子にたくさん支えられてきたのに、その日菜子が一番つらい時に、私は見ないふりをしていた……」
「そんなこと……」
「だから、日菜子。今度こそ、私は逃げない。一緒にここを出ましょう」
 ――今度こそ、本当の友達になりましょう……!
 晶の言葉に、日菜子はしゃくりあげながら頷いた。
「ありがとう……晶ちゃん」
 涙を拭いながら、日菜子は晶の腕を離れ、しっかりとした足取りで立った。
「……もう、大丈夫」
 その姿に安堵の笑みを浮かべた晶は、決心したように日菜子に向き直った。
「日菜子。立花って言う男子生徒の思念は、まだ消えてないわ。もしこれが立花君の復讐なのだとしたら、きっと冬堂君と金城君もまだ校内のどこかにいるはず。助けに行きましょう」
「――うん」
 しっかりと頷き合い、二人は闇に染まった教室を出た。
 廊下を、軽やかな足音が二つ駆け抜けていく。
 まるで夜の闇が凍りついたかのような重い冷気が二人を包む。吐き出す白い息が瞬く間に闇に消える。
 駆けながら四階の教室を確認するが、どこも人気はない。
「……この階にはいないみたいね」
「晶ちゃん、何か感じる……?」
「……微弱だけど……」
 階段へと向かいながら、晶は神経を集中させた。
 ――いる、必ず……校内のどこかに。彼が……。
 階段に辿りついた時、日菜子が息を整えながら言った。
「ねえ、晶ちゃん……。浅倉君って……何か変だったよね? 私たちのこと、笑って見てた。……まるで、楽しんでるみたいに」
 日菜子の言葉に、晶は浅倉のセリフを思い出していた。
 ここにいるそれぞれが、立花やそれを取り巻くモンと深く繋がっとるっちゅうことや
 ――つまり浅倉君は、立花君に復讐される存在である3人と、今回のことに便乗して私を壊そうとした悪霊の存在、これらすべてのことを立花君のような霊体と深く繋がっている存在≠ニ言いたかったのよね。
 でもなぜ、朝倉君はそこまで私達のことを知っているのかしら……?
 いじめの首謀者の金城君はわかるとしても、自殺に直接的には関与していない冬堂君と日菜子にまで復讐≠キる理由もわからない……。
 まして、立花君の件に関わりのない私の、憑りついている悪霊のことまで知っている口ぶりだった……なぜなの?
 手探りで階段を下りながら、日菜子は続ける。
「ねえ、もう一つ疑問があるの……。冬堂君は、立花君と何も関係なさそうなのに……どうしてここに来たのかな……」
「冬堂君……」
 晶がため息をつく。「今夜初めて会った時、彼の周りに嫌な思念が見えたの……まとわりつくような影が。詳しいことはわからないけど、冬堂君自身もきっと、立花君の自殺に関して何かしらの強い思いを持っているんだわ」
「冬堂君が……」
 二人が進む先には、果てしない闇が続いている。
「――だから、早く見つけ出さないと……!」
 晶が再び気を集中しようとしたその時、ふいに、窓の外の異様な光景が目に飛び込んできた。
 暗闇の中に、炎が揺らめいている。
「晶ちゃん……あれ!」
 足を止める日菜子。
 晶も、立ち止まってそれを凝視した。
 昼間のように明るい光に包まれている、校庭の一角。
「あそこ……体育倉庫のあたりだわ」
 日菜子の言葉に、二人は階下へ向けて全速力で駆け下りていった――。