作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 4.日菜子〜@〜

 真壁日菜子は、一人で、闇に染まった階段を手探りで駆け下りていた。
 ――あの、もう少しで門に手が届きそうだった瞬間に起こった、視界の奇妙な歪み。気付けば、日菜子は真っ暗闇の旧校舎の四階≠ノ、一人きりで取り残されていた。なぜ、自分ひとりがこんな所にいるのか、他のみんなはどこへ行ったのか……。多くの疑問が日菜子の頭の中に浮かんだ。
 一人きりだと気づいた時、日菜子は、目の前の暗闇に発狂しそうになった。
「いや……いや、誰か!」
 叫んでも、自分の声が廊下に虚しく反響するだけだった。
 正面を向いても、振り返っても、永遠を思わせるように続く窓の光。廊下の奥は闇に包まれている。
 日菜子はその場にへたり込んだ。
「晶ちゃん……みんな、どこ……?」
 こんな時でも、涙は出てこない。本当は思い切り泣き叫びたいのに、顔を歪ませることしかできない。
「どうしたらいいの……」
 呟きながら顔を伏せた時、肩から下げた鞄の存在に気付いた。その瞬間、すがるかのように鞄をしっかりと抱きしめた。
 ――ここには、私の大事なカメラがある。三年間の部活動で培ってきたものの集大成が、今この腕の中にあるのよ。
 そうよ……だから、どんな状況でも冷静に観察して、最後の私の部活をするのよ。
 大丈夫……大丈夫よ。
 これまでどんな時でも投げ出さずに記事と向き合ってきた自信を思い出し、日菜子はゆっくりを顔を上げた。何度か深く深呼吸し、そろそろと立ち上がる。
 少し目が慣れたのか、闇に見慣れた廊下が浮かび上がった。
 まっすぐ廊下の奥を見据え、日菜子は、とにかく校舎を出ようと駆けだした。辿りついた階段の手すりを手探りで掴み、ゆっくりと下りていく。
 震える足をなんとか動かし、一階分を下りた。
 今度は少し早足で、二階分下りる。
 しかし、下りた先にもまた階段が現れた。
「……!?」
 通常、四階から3フロア分を下りたのだから、一階に着いているはずである。
 日菜子は湧き上がってくる恐怖を振り払うように、今度は駆け足で下りた。何度も何度も階段を駆け下り、踊り場を回ってまた階段を下り……ひたすらそれを繰り返した。段々息が上がってくる。それなのに、一向に一階に着く気配が無い。
「どうして……?」
 ふと廊下に回り、教室のプレートを確認すると、1-F≠ニいう文字がはっきりと闇に浮かび上がっていた。
「うそよ……こんなこと」
 呟き、日菜子はまた階段を駆け下りた。三階分駆け下りて、またプレートを確認する。1-F≠フ文字。
 肩で息をしながら二階分駆け下りる。プレートの文字は変わらない。
 階段を下りる、プレートの文字を見る、1-F≠フ表記。
 日菜子は、何十回も繰り返すこの光景に、ついに力なく廊下に座り込んだ。
 ――出られない……この、呪われた階から……!
 あまりの絶望に、日菜子は嗚咽を漏らした。顔を覆う手に雫が落ちる。
「……?」
 日菜子は、やっと自分が泣いていることを知った。二年ぶりの涙が、止めどなく頬を伝う。
 ――私、久しぶりに泣いてる……。
 自覚すると、途端に抑えがきかなくなり、日菜子は子供のように泣いた。泣きながら、日菜子は思い出していた。立花優という男子生徒のことを。
 ――日菜子は、立花と小学校の頃から一緒のクラスになることが多かった。そして、中学に入学したその年も二人は同じクラスになったが、これまで特に親しい会話をしたこともなかった日菜子にとって、立花は中学でも単なるクラスメート≠ニいう存在だった。
 しかし、日菜子が新聞部の用事で遅くまで残っていたある日、教室に立ち寄った際、偶然見かけた立花の姿を、日菜子は今でもはっきりと覚えている。
 痣と傷だらけの手足、赤く腫れ上がった頬、いくつも足跡がつきボロボロになった制服と、ボサボサの髪……。
 喧嘩ではなくいじめだと見抜いた正義感の強い日菜子は、すぐにその犯人のことを立花に追及しようとしたが、立花はそれを気弱な笑みで遮り、引き止めようとする日菜子をやんわりと制して帰っていった。
 日菜子には、なぜ、酷い目にあっているのに誰かに助けを求めないのかが分からなかった。
 立花の気弱そうな笑みを思い出す。
 ――そう言えば、立花君はクラスでも地味なほうで、いつも読書をしてた。そんな姿を、小学校の頃から仲のいい友達は、暗い奴、と言っていたっけ……。
 影響力の強い友人たちの言葉を反芻すると、日菜子の中にも同様の嫌悪感が生まれた。せっかく芽生えた同情と正義感をあっさり断られたという理不尽な感情も手伝い、日菜子はこう呟いた。
「立花君て、弱虫なのね」
 その弱虫の男が、まさかあんな形で亡くなってしまうとは、夢にも思わなかったのだが……。
 ――しんとした闇の中、しゃくりあげる日菜子の耳に、カタン……と小さな音が聞こえた。
「えっ……」
 顔を上げる。音は、目の前の教室の中から聞こえたようだった。
 日菜子は手の甲で涙を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
 意を決し、目の前の――1-F≠フ教室の戸に手をかける。
 扉は難なく開き、聞き慣れた重いざらついた音が無遠慮に響いた。
 びくびくしながら、日菜子はゆっくりと教室の中を見回した。
 きちんと整えられた机、日付の書かれた黒板、所々いびつに留められた掲示物。誰かの忘れ物なのか、後ろの棚に置かれたままの手縫いの手提げ鞄や帽子……。
 昼間なら、これはどこにでも見かける、ありふれた教室の風景である。ただ、夜だけは少しそこに流れている空気がいつもよりも張り詰めている感じがする。特に今夜は。
 日菜子はふいに懐かしくなり、吸い寄せられるように黒板へ歩き出した。日菜子が一歩教室に足を踏み入れた瞬間、背後の扉は音を立てて閉まった。
「きゃあ!」
 けたたましい音に耳を塞ぎ、振り返った景色に戦慄する日菜子。すぐに扉に取りすがったが、さっきは容易に開いたはずの戸がなぜかピクリとも動かない。
「なんで……なんでよぉ……」
 涙声になりながら、日菜子は必死で扉を叩いた。
「開けて! 助けて、誰かぁ!」
 扉を叩く度、その振動が教室中に響き渡る。共鳴するように、机と椅子がガタガタと軋んだ音を立てた。
「助けて! 晶ちゃん!」
 何度叫んでも、声は夜の闇に掻き消された。
 ――もしかしたら、ここには私一人しかいないのかもしれない……晶ちゃんもみんなも、とっくに学校の外に逃げてしまったんじゃ……。
 絶望と恐怖に泣きながら、日菜子は無駄かもしれないと思いながらも叫んだ。
「助けて! ……お願い、誰か!」
 ――その時だった。
 教室の隅で、音がした。
 カタン……。
 さっき聞こえた音だ。
 日菜子は、思わずビクッと体を震わせた。警戒するように音のした方角を見つめ、ぎゅっと鞄を抱きしめる。
 闇一色だった教室の隅に、白い影がぼうっと浮かび上がった。影は、今にも消え入るかのようにゆらゆらと揺れ、ゆっくりと日菜子のほうに近づいてくる。
「いや……」
 声にならない声を上げ、日菜子は扉を背にして首を振った。
「来ないで……来ないで……」
 呪文のように唱える。
 日菜子には、もう分かっていた。揺らめく白い影が、立花優だということに……。
 日菜子の脳裏に、忘れかけていた記憶が蘇る。
 ――日菜子が立花のいじめに気付いてからも、それは教師に隠れて行われ、段々とエスカレートしていった。ばれないよう顔に痣は一切つけず、服の下の見えない部分――腹をサンドバッグ代わりに殴りつける。それに飽きれば、次は金の要求。その額も回を増すごとに大きくなり、立花が払えないと断ると、トイレに連れ込み便器の中で水責めを行った。立花にとってはまさに地獄のような毎日だった。
 しかしなぜか、立花を庇う人間は誰一人としていなかった。いつだったか正義感から立花を庇った男子が、金城達の報復に遭って入院したという噂が広まってからは、誰もがとばっちりを恐れ、立花など初めから存在しなかったかのように振舞っていた。それが、最も恐ろしいイジメであることにも気づかずに……。日菜子も、あれ以来立花を無視するようになったため、知らず知らずのうちにそれに加担してしまっていた。
 そんな時。
「――あの、真壁さん……」
 背後から振り絞るような声音で名前を呼ばれ、日菜子は足を止めた。
 その日、部活中に愛用していたボールペンをなくしたことに気付き、慌てて教室へ探しにきたのだった。夕日に照らし出される廊下を振り返ると、弱々しく微笑む立花がいた。
「なに?」
 関わり合いになりたくない日菜子はそっけない態度を取ったが、立花は気にせず右手を差し出した。
「これ……HRの時に落としてたよ」
 そこには、日菜子が探していたボールペンがあった。
「それ……!」
 立花の細い手からそれを受け取ると、日菜子は安堵の笑みで彼を見た。
「ありがとう! 立花君」
 その言葉に立花も嬉しそうに微笑んだ。
「……よかった。そのペンを大事にしてたの知ってたから……転がってるのを見つけて、でも、届けようかどうか、迷ってて……」
 ――真壁さんが僕と関わってるなんて、誰かに知られたらいけないから……。
 立花が弱々しく呟く。
 そこで初めて日菜子はいじめのことを思い出し、気まずい思いで俯いた。
「あの……」
 何か言いかける立花の脇を通り過ぎ、日菜子はその場を走り去った。その時立花がどんな表情をしていたのかも、見なかった。
 翌日、日菜子の教室の黒板には、誰が描いたのか大きく相合傘が落書きされていた。恵が席を外した隙に描かれたそれは、クラスメートはおろか学年中に知れ渡る勢いで広まり、教室は詰め寄る生徒の人垣で朝から騒然としていた。
 登校時から好奇の視線を向ける生徒達に困惑しながら、教室に入った日菜子の目に飛び込んできたのは、相合傘に書かれた、自身と立花の名前だった。
「日菜子〜どういうこと?」
 立花をよく思っていない、クラスのリーダー格の友人に詰め寄られ、日菜子は思わず叫んでした。
「……か、関係ない! あんな暗いひと……あり得ない!」
 その言葉に、教室の隅でたむろしていた金城達が下品な笑い声を上げた。
 誰かに昨日の出来事を見られていた、そのことが異常に恥ずかった。自分まで負け犬になった気持ちになり、日菜子は嫌悪感に襲われた。そして今ここで気丈に振る舞わなければ、自身も教室で孤立してしまう、日菜子はそう悟っていた。
 だから、何も知らない立花が登校してきた時、日菜子は焦っていた。思わぬ言葉が口をついて出る。
「立花君、最低よ。私まで巻き込まないでよ。迷惑なのよ!」
 立花が凍りついたように立ち尽くす。
「そうよ、日菜子が困ってるじゃん」
「さいて〜!」
 女子も煽る。
「ねえ、日菜子?」
 リーダー格の女子に促され、日菜子は冷たく言い放った。
「そうよ……いつもへらへら笑って……。そんなだから、いじめられるのよ! もう話しかけないで!」
 その言葉に、見守っていた野次馬が歓声を上げた。
 腹を抱えて笑う金城が見える。
 教室中が下品な野次に包まれた。
 ――ほどなくして教師の気配を嗅ぎ付けたクラスメートは、素早く落書きを消し、何事もなかったかのように着席した。
 担任が現れた時、日菜子も席についていたが、立花だけは蒼白な表情で入口に立ち尽くしたままだった。担任に促されるとゆっくり自席についたが、俯いたまま一度も日菜子を見なかった。日菜子も、立花を見なかった。
 その日を機にますますいじめは悪化したが、日菜子は無視に徹し、恥をかかされたこともあり、段々といい気味だとも思うようになっていった。
 だが、そのわずか一週間後、立花は屋上から飛び降りたのである。――日菜子の感情が失われたのは、その時からだった。
 ただ、恐ろしかった。
「来ないで……立花君。お願い……!」
 日菜子は、後ろ手で扉を必死で動かそうとした。しかし、扉はびくともしない。
 白い影は、少しずつ輪郭を明確にしながら、ゆっくりと近づいてくる。
 そうよ……なんで疑問に思わなかったの。ここは紛れもない、二年前のあの教室……!
「いや……。助けて……! 私、ああするしか……」
 ああするしかなかったんだもの!
 日菜子は泣きながら、浮かびがる影を見つめた。恨めしそうに日菜子を見据える立花の目が、真っ赤に燃え上がっている。
 ――だって……仕方なかったの。ああでも言わないと、私まで……。
「許して……来ないで……!」
 日菜子は、すぐ傍まで迫ってきている影に必死で叫んだ。鞄を抱きしめ、その場にしゃがみ込む。
 影は、滑るように日菜子の目の前へ進んだ。まるで幻影のようなその姿は、時折闇と一体化するように揺らめきながら、日菜子に手を伸ばす。
「いや……っ!」
 日菜子は俯き、固く目を瞑った。
 助けて……誰か! 助けて……。
 ――……どれくらい、そうして祈り続けていただろうか。
 あまりに長い静寂に、日菜子が固く閉じていた目を恐る恐る開くと、そこに、立花の姿はなかった。
「え……?」
 静寂に包まれた教室。辺りに人の気配はない。
 ……私、助かったの……!?
 安堵の息を漏らし、日菜子は鞄を抱きしめ立ち上がった。何気なく黒板を見上げ――凍りついた。
 黒光りする黒板には、忘れもしない、忌々しいあの時の落書きがそこにあった。赤や青、白、黄色で色とりどりに書かれた冷やかしの文字と、何度も濃く描かれた相合傘と二人の名前。二年前の落書きが、まるでたった今描かれたかのように、生々しく浮かび上がっていた。
「……な、何、これ……」
 さっきまでは何もなかったのに……なぜ、これがここにあるの……!?
「……真壁さん」
 突如、闇色の教室に低いくぐもった声が響いた。「あの時……真壁さんはここで、僕に言ったよね」
 立花の声だった。立花は、決してここを去ってはいなかったのである。
 教室の隅を見止め、日菜子は短く悲鳴を上げた。
 そこには、変わり果てた姿の立花優が立っていた。全身を血で赤黒く染め、力なく垂れ下がった腕がとんでもない方向に折れ曲がっている。奇妙にうなだれた頭部は醜く変形し、血が溢れていた。
 ――これが……立花、君……?
 日菜子は、腰を抜かしその場に崩れ落ちた。意識が朦朧とする。これは現実……? 嘘でしょ……?
 混乱する日菜子を見据えたまま、立花は呪文のように囁いた。
「私は関係ない、って……。巻き込むな、って……」
 その言葉に、日菜子は泣きながら首を振った。
 ――いや……どうして私だけ? 
 どうして私だけ、立花君に恨まれなきゃいけないの……?
 どうして私だけ、こんな目に遭うの……?
 泣きながら座り込む日菜子の周りで、整然と並べられている机や椅子がガタガタと揺れ始めた。それらは段々と激しくなり、教室中が轟音に包まれ始める。
「いや……やめて……!」
 日菜子が叫んだ瞬間、まるで手品のように、それらはふわっと宙に浮いた。
 目の前の景色に言葉を失う日菜子を見据え、立花は燃えるような赤い瞳で言った。
「僕はとても悲しかったんだ、真壁さん」
 その声と同時に、宙に浮かぶ机と椅子が、日菜子めがけて一斉に襲いかかってきた。
 日菜子の短い悲鳴が、教室の闇に響く。それを嘲笑うかのように、黒板の落書きが鈍く光った。

 ――校庭では、狂い咲きの桜が、またひとつ、音もなく花弁を散らしていた……。