作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 3.恵〜@〜

 気付くと、俺達は信じられないことに、暗闇に包まれた校舎の中に立っていた。闇一色の硬い廊下に、かすかに映り込む四角い窓の影。それは延々と奥まで伸びており、まるで、この暗闇に永久に出口が無いかのような絶望的な錯覚を起こさせる。物寂しげな空気と滑らかな漆黒の暗幕。夜の闇の中では、見慣れているはずの教室の群れも、ただのぼんやりとした映像に過ぎなかった。
 ――今起こっていること全てが、悪い夢のようだった。……そう、悪夢だ……。
 真壁も、中務も、金城も、たった今自分に起こった奇妙な怪奇スリップに、呆然としていた。そろそろと辺りを見回し、驚愕の瞳で視線を交わす。それは、答えの無い答えを他人に求めるかのような、何かにすがるようなそんな瞳だった。俺達は次第に、今自分達がここにいること自体に現実味を失いかけていた。
 ――夢なら、醒めろ。
 祈るような気持ちで、俺達はただ、無言で辺りを見回した。
「……みんな、怪我はないか?」
 意を決して、俺は不安な自分の気持ちを押し殺すように口を開いた。
 各々、蒼白で頷く。
「と、とにかく……。ここを出るんだ。ここは……何階か、分かるか?」
 そう言い、俺は中務を見た。この中で一番、彼女が冷静な反応をくれるような気がしたのだ。
 中務は暗闇を凝視し、傍にあった教室のプレートを確認した。
「……一年の教室だわ。ここは、四階ね」
「そうか」
 理性をギリギリで保っている俺とは違い、中務は青ざめてはいるが普段通りの落ち着いた様子に見えた。それはその霊感ゆえなのだろうか、とても肝が据わっているように思えた。だが、言い換えれば、それだけ彼女はこんな異様な状況を体験してきているということなのだろうか。
 ともかく、今はこの奇妙な空間から抜け出すことが先決だった。こんな異常な出来事が平然と起こるなど、もはや、ここは俺達がよく知っている通い慣れた学校ではないような気がしてきていた。例えるなら異空間だ。参考書にもどの教科書にも載ってはいない、三流怪奇小説のような話だが、しかし、これは今実際に俺達の身に起こっている出来事なのだ。……信じる他無い。
 俺は目まぐるしく思い出していた。
 ――俺達の中学校の造りは、まず平行に並んだ新・旧校舎があり、その先端を渡り廊下が繋いでいる。だから、真上から見ると全体が口の字の形だ。校舎は四階建てで、一年生が四階、二年生が三階、俺達三年生が二階の教室を所有している。だが、去年新校舎ができてからは、生徒は皆、旧校舎ではなく新校舎で授業を受けている。つまり一年生のプレートがあったここは、新校舎の四階ということだ。
 窓からの光に照らし出された長い廊下が闇の中へ伸びている。一階に下りる階段は、その奥の突き当たりだ。
 俺は、とにかくこの校舎を出ようと歩き出した。
「……ど、どこ行くの」
 真壁の消え入りそうな声。
「一階だ。……とにかく、早くここを出よう」
 内心怖かったが、はっきりとした口調でそう言うと、不思議と、少し恐怖が和らぐような気がした。
 いつでも、恐怖や絶望に飲み込まれてはいけない。俺はただ、これまで自分が歩んできた道を信じて、進むだけだ。何も恐れることはない。……俺は、何も間違ったことなどしていないのだから。
 俺が歩き出すと、金城と中務もゆっくりと俺の後に続いた。真壁はというと、無言で俺の方に駆け寄ってくると、心細いのか、そっと俺の服の裾を握った。その時俺は、少しだけ、真壁を可愛いと思った。
 先の見えない闇の中を、俺達はひたすら歩いていく。その姿は、出口の無い迷路を当ても無く彷徨っている姿とよく似ているかもしれない。
 無言で廊下を進む俺達の乾いた靴音がこだまする。暗闇のせいか、見慣れたいつもの廊下がとてつもなく長く感じる。
 ――それにしても、浅倉……。あいつは、一体何者なんだろうか?
 俺は、歩きながら思案に耽った。気が狂いそうな闇の中では、常に頭の中を何かで満たしておかなければ意識を失ってしまいそうな気がしたのだ。
 浅倉は……立花の霊の復讐を喜んでいる。俺達が逃げ惑うのを見て楽しんでいるんだ。いじめを誇らしげに語る金城よりもタチの悪い人間だ。
 だが、どうしてあいつにはこんなことができるのだろうか?
 俺達は確かに校庭にいたはずなのに、気が付くと新校舎の四階にいた。あいつが俺達の気を失わせてここまで運んだのだろうか? ……いや、それだけではこの奇妙な感覚の説明がつかない。やはりこれも……立花の仕業なのだろうか?
 それにもうひとつ、腑に落ちないのは、朝倉だけ何も被害を受けていないということだ。もしこれが立花の復讐なら、クラスメートだった訳でもない無関係な中務まで、わざわざ巻き込むことはない。だが実際に、ここには中務まで一緒に迷い込んでしまっている。これは、一体どういうことなのか……。
 そして、浅倉は、ここにいる全員が、立花やそれと関わるものと繋がっていると言っていた。一体それはどういう意味なのか……。
 わからないことだらけで混乱していると、隣を歩く真壁がそっと口を開いた。
「冬堂君って……強いよね」
「……え?」
 見ると、真壁はかすかに震えていた。
「冬堂君、怖くは……ないの?」
「……まさか。少しは……怖いよ。俺も」
「本当……?」 
「ああ。でも、俺は自分のしてきたことを信じている。だから、今の自分も信じられるんだ」
 ――それが、俺の強さだ。
 俺は、ずっとそう信じてきていた。
 だが、真壁は冷たい口調で言った。
「そう……そんなに、自分に自信があるんだ。だから、いつもひとりなんだよね。誰のことも頼らない、自分ひとりだけがいればいいって、いつもそんな顔で、私達を見下してたもんね」
 彼女の口調らしからぬ淡々とした言葉に、俺は驚きながらも怒りの視線を向けた。しかし、彼女はそんな俺を気にも留めず、俺の服を引っ張ったまま何の表情も浮かべず前を向いていた。
「冬堂君は、いつもそうだった。俺はエリートだ、って顔して、眼鏡の奥から私達を観察してたでしょ。私達のことを軽蔑して、蔑んでた……。――そう、立花優≠フことも」
 真壁の言葉が、重い響きを持って俺の心の中に反響した。見下す? 確かに、俺はひたすら自分の行先を見据えて努力していたから、それを怠る人間のことを一段低く見てはいた。だが……なぜ、今そんなことを言われなければならない?
 みんなのことを見下していたと……。そう、立花のことも……。
 ――立花?
 俺は、何か忘れている気がする。何か、とても大切なもののことを。それは、一体何だ?
 ――あの、赤い炎のことか……?
 頭の中でもう一人の自分が呟いた。
 ちょっと待て、炎? ……何のことだ?
 ――立花優は、自殺したんだ。自ら命を断った。死んだ……。
 そう、彼は自殺した……。二年前の今日だ。だが、俺は関係ない、俺は立花とは何も……。
 ――本当にそうか……?
「うるさい! もうやめろ!」
 思わず叫んだ時、俺ははっと気づいた。前方に見えていた、廊下に連なる窓の光が消えている。教室のドアも見当たらない。廊下も、天井も、何もかもが深い黒、闇一色に変わっていた。
「!」
 俺は一人、闇の中に取り残されていた。さっきまで隣にいたはずの真壁も、後ろを歩いていた金城も、中務も、みんな忽然といなくなっていた。
 誰もいない。……何もない。
「そんな……」
 ――誰も求めない。何も見ない……。
 その時初めて気づいた。この深い闇は、まるで俺の心の投影のようだ。しんとしていて、何も感じない。
 そう、俺は……そんな人間だったのだ。この闇のように、無関心で、孤独な人間……。
 では、これは夢なのだろうか? いつも眠ると、ただの真っ暗闇の夢を見る。そこでは何も感じない、ただ闇に身を預け漂っている。そんな無機質なあの夢の感じがする。
 俺が錯覚を起こしかけた時。
“君、立花優君だろう?”
 闇に、俺の声がこだました。
“動物、好きなんだな”
 その言葉に、ふいに目の前に四角く切り取られた空間が現れた。その巨大なスクリーンいっぱいに、嬉しそうに微笑む立花の姿が映し出される。セピア色のそれは、まるで古ぼけた映画のワン・シーンのようだった。
 映像が切り替わる。
“冬堂君は偉いなあ。委員長だし、勉強だっていつも学年トップだし”
 寂しそうな笑顔の立花。
“それに比べて、僕は取り柄無いし、目立たないし、凄く平凡だよなあ”
 言って、立花は悲しげに目を伏せた。
 ……覚えている。そう、これは……生きていた頃の立花の姿だ。俺との、数えるほどの短い会話……。多忙な委員長の身でありながら飼育係を押し付けられた俺が、クラスメートの立花と作業をしていた時に交わしたほんの些細な会話……。もう、忘れたと思っていた、あの頃の懐かしい記憶……。
 ――確かに、立花は決して目立つタイプの男ではなかった。
 しかし、滅多に他人と会話をしない俺が、初めて会話をしていて楽しいと思えたのが、この立花優だったのだ。実に不思議な男だった。日常の何気ない話題すらも、立花といると、俺は退屈することなく聞き役に回ることができた。普段なら、クラスメートのごくごく平凡な会話は低能すぎて聞くに堪えないのだが、立花のそれは違った。同じ話題の同じ内容でも、クラスメートのものとは視点が全く違うのである。話をする人間の視点が高度であればあるほど、その話は聞き手の興味をそそり、面白味を引き出す。おそらく立花は、そういった、物事に対する観察眼が他者よりも優れていたのだろう。だから無意識に話術の巧みさをも心得ていたのだ。
 立花は、一緒にいて飽きない男だと、俺は驚きと共に確信していた。
 ……しかし。
 ふいに映像が途切れ、またもとの暗黒と静寂が俺を包んだ。
 闇に、立花の声だけが響く。
「冬堂君は本当に凄いなあ。いつも人のことをよく見てる。――よく、観察してる」
 係りの仕事を終えた時、立花が俺に言ったセリフだ。俺は、その言葉を聞いた時、一瞬ぎくりとしたのだ。そこから紡がれる次の言葉を、俺は聞きたくなかった。
「……でもね」
 立花の、押し殺すような低い声。
 俺の真横の暗闇から、はっきりと、立花の声が聞こえた。
「本当は、誰のこともちゃんと見えてないんだよ。冬堂君は」
 奇怪な声だった。妙に甲高く、それでいて低く太い声にも聞こえた。俺の頭の中で、何かがわんわんと鳴り響いている。
 俺は、傍らの闇の中に、俯いて立ち尽くしている立花の姿を見た。制服の上着からズボンにかけて、赤い染みがべっとりと付着している。さっき桜の下で見た立花とは様子が違う。
「立花……!」
 背中を、冷たいものが走った。全身が総毛立つ。これ以上見ていてはいけない、わかっているのに、目が離せなかった。
 俺は、闇に浮かぶ立花を凝視したまま硬直した。
 立花は呟く。
「冬堂君……君は、結局は、卑怯者なんだ。他人を避け、嘲り、自分の力だけを過信して、そして最後は自滅していくんだよ」
 声に、重苦しい響きが込められていく。「冬堂君は卑怯者だ。他人を観察して、何でも分かった気になっている。僕のことも。……だから、僕を避けたんだろう?」
 そこで、立花が俺を見上げた。さっきと同じ、恨みのこもる目つきで、じっと俺を見据える。
 俺は、緊張と恐怖で舌が渇いたように張り付き、声が出せなかった。それでも必死で言葉を紡ぐ。
「……避けた=c…ああ、そうかもしれない……。でも……でも、立花――」
 俺は、今ここで立花に謝ろうと思った。謝って、それで、もう全てを忘れてしまおうと思った。忌まわしい記憶を、永遠に心の闇に閉じ込めてしまいたかった。
 しかし、立花はそれを許さなかった。
 ふいに、物凄いスピードで立花は俺の正面に移動した。
 俺は声を失った。
 立花の頭部は片側が奇妙に凹み、白いものを覗かせていた。溢れ出る血が、彼のさらさらだった髪を固め、変色させている。頬まで滴り落ちた血が、ぽっかり空いた右目の眼窩へ飲み込まれていく。俺のわずか数センチ先のところで、残った彼の左目が、虚ろに俺を捕らえていた。
「僕は、死んだんだ」
 死を味わった者の絶望的な声音と共に、立花の顔の皮膚が溶けるように崩れ落ちた。残されたのは赤黒いボールのようになった顔だったもの=B彼の制服は血にまみれ、両手足の関節がおかしな方向に曲がっているのが見える。
 むっとする生暖かい金属臭があたりに立ち込めた。
 ふいに、頭のどこかがじんと痺れた。段々と意識が薄れてゆく。
 立花は……本当に、死んだんだ……。
「――違う、冬堂君が殺したんだよ」
 遠くなる意識の中で、立花がはっきりとそう言うのが聞こえた。
 グロテスクな人形のようになった立花が俺に覆い被さってくる。
 ……ああ、死ぬんだ。
 目を閉じ意識が遮断される最後の瞬間、俺は、これまで築いてきた自信や地位が失われる恐怖と、死というものの本当の意味を、初めて理解したような気がした……。