作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 2.降霊

 凍てつく真夜中の空気に包まれ、狂い咲きの桜は、ひとり暖かそうに枝を茂らせている。
「……そろそろ2時ね。じゃあ、始めましょ」
 真壁が、キッと桜の木を見据えた。微笑むように、花びらが数枚はらはらと俺達の上に降り注ぐ。
 澱んだ闇の中で、薄桃色の輝きは夢のように浮かび上がり、傍の真っ白な校舎を照らし出していた。その足元には、昼間見た花束が申し訳なさそうに佇んでいる。
 ……本当に不思議な木だ。いわく付きの木のはずなのに、今はただ美しいと思える。桜が、恐ろしい夜の闇すらも包み込んで溶かしてくれるようだった。
 ――ここで、立花は死に……この木が、まるで立花の存在を忘れさせまいとするかのように時期外れの花を実らせた……。それは本当に偶然なのか、それとも何か得体の知れないものの力なのか。
 今夜、それがはっきりするのだ。
 心なしか、俺たちの周りの温度が少し下がったように感じられた。訳の分からない緊張と期待で、手足が震える。
 俺達は、太い木の幹を包み込むようにして、等間隔に並んだ。俺は校舎の壁を背にして立ち、俺の右から真壁、中務、浅倉、金城の順で輪になっている。
 ピンと張りつめた空気の中、みんなの顔は少し青ざめ、硬直している。それぞれが吐く息が白く霞み、消えていく。
「……せーの」
 真壁の声に、俺たちは一斉に息を吸い込んだ。
「どうぞ……怨みをはらしてください」
 一回。
「どうぞ、怨みをはらしてください」
 二回……。
 みんな、慎重に口ずさんでいく。
 その時、俺はふいに背筋に冷たいものを感じ、総毛立った。
 ――なんだ、この感じは……。
 なぜか急に吐き気がした。今まで感じたことのない不安と恐怖が、凍てついた冷気となって俺の体を取り巻いている。
 寒い……凍えそうだ。歯がガチガチと鳴り出す。
 他のみんなは何も変わらず、真剣な表情で残りの一回を唱えようとしていた。誰も気付かないのか、この異様な空気に……。
 ――もしや、これは俺だけが感じ取っているものなのか?
 そう考えた時、俺は初めてこの場を逃げ出したいと思った。足元から這い上がってくるような恐怖……。こんなもの、今まで一度も感じたことがない。一体どうしたんだ……?
 異様な冷気に包まれる中、俺はふいに、背後に嫌な気配を感じた。後ろの壁、あの花束が供えられている真っ白い壁の傍に、誰かが立っている気配がする。見たわけではない、ただの勘なのに、なぜかはっきりとそう分かった。そこに立っているのは男だ。白いもやのようなものに包まれながら、頭を垂れてじっと立ち尽くしている。俺の周りにある凍てついた空気は、どうやらその男から発せられているようだった。冷気は、どんどんと濃くなっていく。
「――どうぞ」
 三回目の、みんなの声が聞こえた。男の頭がわずかに動く。
「……怨みを」
 声に呼応するように、男の頭がゆっくりと持ち上げられていく。恐怖と絶望が俺の胸を締め付けた。
 顔を見てはだめだ。目を逸らすんだ。
 本能が叫んでいた。
 闇に隠れていた男の顔がゆっくりと見え始める。――だめだ、見るな!
 俺は必死で目を閉じたが、瞼の裏の深い闇に、男の姿はより鮮明に浮かび上がった。見えるはずのない背後の景色が、ぐいぐいと入り込んでくる。
 ついに、男の青白い顔が現れた。生気の無い頬、うつろな瞳。本能的に、もうその男は生きていないと悟る。しかし、その蒼白な表情の中で、燃えるような一対の目だけが生者のそれのようにギラギラと輝いていた。その瞳の奥には、怨みや憎しみといった強い負の感情が熱く煮えたぎっている。
 ――!
 その男の顔を正面から確認した瞬間、俺はビクッと体を震わせた。恐ろしい形相で俺を見つめてくるその顔に、俺は確かに見覚えがあったのだ。 
「――おはらしください!」
 とうとう、呪文が唱え終わってしまった。
 男が、うなだれた格好のまま俺を睨んでいる。
 その男は――立花優だった。
 闇の中に、青白く浮かび上がる立花。その燃え上がるような赤い瞳が俺を刺す。
 ……立花は、ここで死んだのだ。ここで、自殺した……。
 俺が短く息を吐いたその時、鬼のような形相だった立花の表情が、すっと変化した。それはまるで悪巧みを思いついた子供のような、気味の悪い笑みだった。
 ゾッとした瞬間、立花の姿は揺らぎ、夜の闇に解けるようにして消えた。
 同時に、俺はやっと金縛りのような冷気から解放された。両足ががくがくと震えている。みんなが平然としている様子から、どうやらあれを見たのは俺ひとりらしい。
 呪文を唱え終わった真壁は、今にも何か不思議なことが起こるのではないかと、鞄からカメラを取り出して楽しそうに身構えていた。
「……冬堂君、大丈夫?」
 その声に顔を向けると、中務が鋭い瞳で俺を見ていた。その表情は、言葉とは裏腹に酷く怒っているように見えた。
「……大丈夫だ」
 言って、俺は中務から目を逸らした。
「なに、何かあったの?」
 真壁が好奇心旺盛に問う。
「なんや、顔青いで冬堂君」
 浅倉も真顔で俺を見た。
「……何でもない、大丈夫だ」
 そう答えながら中務を見ると、霊感があるという噂通りに、彼女も何か俺と同じものを感じ取ったのか、苛立ったような落ち着かない様子で桜を見上げていた。
「……あ〜あ、結局何にも起こらないね。つまんない」
 真壁が、カメラを鞄の中に戻しながらため息をついた。
「なんて言って、幽霊が出たらすっげービビりまくって、取材になんねぇんじゃねえのか?」
「なによ、金城君こそ、本当はビビってたんじゃないの?」
 その言葉に、ふいに金城は真顔になった。
「ビビってはねえけどよ、もし伝説の通りだったら、出てきた幽霊ってのは立花だったかもな。なにせ、ここで死んだんだしな」
 その言葉に、俺はさっきの立花の恐ろしい瞳を思い出し、身震いした。
「立花=H」
 浅倉がキョトンとする。今年転校してきたばかりの浅倉は、当然のことながら、一昨年の冬に自殺した立花優のことを知らないのだ。
 金城が説明をする。
「一年の頃にな、立花優って奴がいたんだよ。まあその年の冬に自殺したんだけどな、屋上から飛び降りて。奴が死んでたっていうのが、この木の立ってる傍だ」
 凍てついた風が俺達の間を吹き抜ける。
 残酷な説明を聞いても、真顔のままの浅倉。
 真壁は、感情の無い笑顔で桜を見つめ、中務はなぜか俺を睨んでいる。……嫌な女だ。
「この桜の木の伝説も、確か奴が死んでからできたんだぜ。ああ、ほら、そこに花が供えてあるだろ」
 金城の言葉に、浅倉は壁に凭れかかる花束を見た。花は、昼間よりもだいぶ萎れた様子で風に吹かれていた。
「ああ……この花かいな。自殺した子への弔いの花やったんやな……」
 少し寂しそうに呟く浅倉。それに答えるかのように、桜の花びらが数枚、壁の花束へ舞い落ちた。
「今日が……立花の命日なんだ」
 俺が言うと、真壁の小さな肩がわずかに動いた。しかしその表情は、いつもと変わらない笑顔である。こんな気味の悪い話題の中で微笑んでいられる真壁が、俺には理解できなかった。 
「命日……そうなんか。立花ゆう奴のこと、よう知っとるんか?」
「よくってわけじゃ……同じクラスだっただけだ。俺と、真壁と……金城も」 
「そうなんか。……じゃあ、みんな友達やったんやな」
 浅倉の言葉に、俺は胸のどこかが強く痛むのを感じた。
 ――友達……?
「違う」
 言ったのは、金城だった。「俺はダチなんかじゃなかったぜ、むしろ逆だ。イジメてたんだよ、立花を」
「イジメ……?」
 浅倉が首を傾げる。
「そう、小学校≪ガキ≫の頃からずっとな。いい気晴らしだったぜ」
 その言葉に、俺は自分でも訳が分からない怒りを覚えた。なぜか一瞬、金城を殴りつけたい衝動に駆られた。
 金城は、白い息を吐きながら嗤う。
「そういやあ、真壁、一年の時、奴とイイ感じだったよなぁ? マジで付き合ってたのかよ?」
 ――そんなことが……?
 そういえば、一年の頃、そんな噂を耳にしたような気がするが……。
 見ると、真壁は満面の笑みできっぱりと言った。
「まさか。あり得ないわ。関係ない」
 明るい真壁の声は、真冬の夜に凛と響いた。拒否するように答えた言葉とは裏腹に、無邪気な笑顔を浮かべている真壁。不釣り合いなその表情は闇の中で狂気に映った。
 俺は初めて、真壁が正常な状態ではないのではないかと感じた。あまりに感情が統一されてしまっている。推測するに、彼女の心の中には怒りも恐怖もなく、いつ如何なる時も、その頬には微笑しか浮かべることができないのではないだろうか。それは、一種の病気のようなものに感じた。
 一体いつから、彼女の微笑みは狂ってしまったのだろうか……。
「――それに」
 金城が続ける。「委員長も、確か立花と仲良かったよなあ?」
「……俺は、知らない」
 いきなり話題を振られ、俺はただシラを切った。にやつく金城から目を逸らし、いつものように眼鏡の奥に感情を隠す。
 だが、中務は相変わらず突き刺すような視線を俺に向けている。さっきの妙な助言といい、その視線といい……一体、中務は俺の何を知っているというのだろうか。
 それに、さっき立花は俺を睨んでいた。俺のことを恨んでいるということなのだろうか……?
 浅倉は、金城の説明が終わると真顔で頭をかいた。
「……なんや、変な雰囲気やなあ。その自殺した立花ゆう奴と、みんな面識あったんやろ? それが、なんでこんなよそよそしいねん。まるで、嫌な思い出みたいや」
「……クラスメートが自殺したんだ。いい思い出な訳ないだろう」
「そうか?」
 俺の言葉に浅倉が噛みつく。「せやったら、なんでみんなここに来たんや。よりによって嫌な思い出の、しかも命日に、わざわざ寒い夜中に、みんな何しにここに来たんや?」
 ――……!
 確信を突かれた気がした。
 それは、ずっと俺の中にあった疑問だった。
 ……ドウシテ、俺ハココニ来タノダロウ?
「私は……ただの取材だもの。たいした意味なんて無いわ」
 真壁がにっこり微笑む。
「せやけど、元クラスメートが自殺した現場やで? 気味悪いなあ、思わんかったんか?」
「別に……」
「好かれとったんちゃうんか? 立花に」
「やめて!」
 初めて真壁の表情が崩れた。「関係ないの!」
 自分にいい聞かせるかのように、真壁は両手で顔を覆った。中務がそれをなだめる。
「せやったら……」
 浅倉がゆっくりと俺を見た。その目は妙な威圧感を帯びており、逃がすまいとするかのように、しっかりと俺を捕らえていた。「冬堂はどうやねん? 立花ゆう奴と仲良かったんか?」
「俺は……別に」
「――委員長は、当時も俺達のクラスの委員長だったぜ」
 金城が口を挟む。「確か、掛け持ちで飼育係やってて……それは立花と組んでたんだよなあ、委員長?」
「……ああ」
 ――ふいに、俺の脳裏に、踊り狂う真っ赤な炎が蘇った。二度と思い出したくない、嫌な過去だ。
 浅倉は、俺の心を見透かしたように薄く笑んだ。癪に障る。
「なぜ、笑ってるんだ?」
「別に? ただ、ここに集まったメンバーは、何かしら過去に重いモン抱えとるんやなあ、思っただけや。真壁も、シゲも、中務も、委員長も……みんなや」
 その言葉に、金城が反応した。
「なんだよ、浅倉。随分知ったクチきくじゃねえか。俺は、お前がこの桜の木を見たいって言うからここに――」
「せやけど、きっかけが何やったにしろ、結局シゲもここに来たやろ」
 凄む朝倉。「シゲ自身もあんまりええ思い出がないはずやのに、よりによって今日、俺をここに案内した……。それが、どういう意味か分かるか?」
 ふいに、浅倉の声のトーンが変わった。重苦しい空気が辺りを包む。
 俺達はただじっと、浅倉が紡ぐ次の言葉を待っていた。取り乱した真壁でさえも、顔を上げ、怯えた表情で浅倉を見つめている。
 俺達の間に、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる。
「――つまり、ここにいるそれぞれが、立花や、それを取り巻くモンと深く繋がっとるっちゅうことや。せやから、今日ここに集まった。いや、集められたんや」
 集められた……?
 朝倉の瞳が妖しく輝く。
「せやから、みんな、自分の意思でここに来たんとちゃう。つまりな――」
 その時、ふいに校庭の木々が一斉に激しくしなった。一拍置いて、刃のような冷たい風が辺りに吹きすさぶ。
 コートで身体を覆う俺達の耳に、朝倉の声がこだました。
「つまり……お前らは、呼ばれたんや」
 ――呼ばれた……?
「な、何に……?」
 マフラーで顔を覆いながら、真壁が問う。
 それに呼応するかのように、突風が勢いを増した。傍らの桜の花は激しく吹雪き、立てかけられていた花束が乾いた音を立て地面に倒れた。互いの花びらは風に舞い上がり、美しい弧を描きながら俺達の周りを舞った。
 風の勢いと寒さに耐えられず、顔を覆いながら見ると、この冷たい疾風の中でも朝倉は微動だにせず佇んでいた。口元には変わらず笑みが浮かんでいる。この状況で、なぜ彼はそんな平然としていられるのだろう……どこか様子がおかしい。
「あ、浅倉……?」
 金城の声。「どうしたんだよ、お前……」
 金城も異常を感じたらしい。不安げなその声に、浅倉はにやりと笑った。
「せやから、お前らはこの場所に呼ばれた≠や。伝説の通り、あいつに復讐されるために」
 復讐
 その言葉に、俺は訳も分からずゾッとした。伝説? あいつ=c…? 何を言ってるんだ、こいつは。
 浅倉は続ける。
「みんな、それぞれ覚えがあるやろ? 死んだ奴≠ノ復讐される覚えが。お前らが呪文を唱えてしもたから、たった今呼んでもたんや。――あいつ≠フ復讐が、始まるで」
 その言葉が発せられたと同時に、強風はピタリと止んだ。さっきまでの出来事が嘘のように、校庭にはもとの夜の静寂が戻ってきていた。
 俺達は、みんなそろそろと周りを見渡し、お互いの無事を確認した。
「な、何だったんだ、今の……」
 俺はずれた眼鏡を直した。
「酷い風だったわね……日菜子、大丈夫?」
 中務の声に、真壁は青ざめながら笑顔を作り、
「……うん、大丈夫よ。晶ちゃん」
 と答えた。
 俺は、訳のわからない言葉で恐怖を煽った浅倉に向かって、
「君は一体何がしたいんだ――」 
 と言う……つもりだった。しかし、顔を上げたそこに、浅倉の姿はなかった。ただ、夜の深い闇だけがそこにあった。
「浅倉……?」
 金城も慌てて周囲を見回す。
 だが、ここはだだっ広い校庭の一角。桜の木と塀のように無機質な校舎の壁しかない。どこにも隠れる場所はないのだ。
 ――朝倉は、俺達の前から忽然と姿を消した。
「浅倉君……さっき、何を言ってたのかしら」
 中務が整った眉をひそめながら呟く。「あいつの復讐≠チて……一体、何なの?」
「決まってんだろ、立花のことだ!」
 金城がイラついたように叫んだ。「俺がさっき、自殺した立花のことを話したから! それと伝説のことをくっつけて、俺らをビビらそうとしてんだろ。ちぇッ、何なんだよ、アイツは!」
 金城が地面を蹴り上げた。闇に砂埃が立ち上がり、花びらと共に消える。
「! ――見て!」
 突然、さっきまで笑みを作っていた真壁が、凍りついた表情で桜の木を指差した。
 俺達が一斉に見上げると、漆黒の闇の中、先程まで輝くように生い茂っていた桜の花は、その半分以上が削がれたように無くなっていた。花弁の束が所々抉られたように空き、裸の枝が覗いている。その足元には、散り落ちた大量の花びらが、ひっそりと大きな水溜りを作っていた。
「……桜が……」
「散ってる……」
 ――復讐が遂げられた時に散るはずの、桜が……。
 俺達は、木を見上げたままその場に立ち尽くした。
「これは、きっと……さっきの強風のせいだろ?」
 上ずった声の金城。
「いや、それにしても、こんなに急に減るのはおかしい……」
 呟くと、隣にいた真壁がビクッと反応した。
「……始まった、言うたやろ?」
 すぐ傍で浅倉の声がした。
 俺達は一斉に振り返った。が、やはりそこはただの深い暗闇だった。浅倉の姿は無い。
「おい、浅倉! お前、一体どこにいるんだよ!」
 金城が夜の校庭に向かって叫ぶ。
 闇に反響するかのように、どこからか浅倉の声が響いた。
「その桜の花が全部散ったら、お前らが呼び起こした霊の復讐は遂げられるんや。……知っとるやろ?」
「な……何言ってんだ!」
 金城が怒鳴る。「復讐なんて……霊なんているはずねえだろ! ふざけてねえで、早く出てきやがれ!」
「……本当に、そう思うんか?」
 夜の闇に響く、浅倉のその冷徹な声に、俺は思わず息を飲んだ。……こいつは、本当に俺達の級友の浅倉なんだろうか? まるで赤の他人のような物言い……そこには少しも情が感じられない。
 その時、校舎の影から音もなく浅倉が姿を現した。その表情は先ほどまでとは違い、冷たい蝋人形のように無表情だった。
「浅倉……お前!」
 苛立ちながら、金城が浅倉の方に駆け寄ろうとしたその時。
 金城の体が、ふいに激しくよろけた。その様子はなんとも滑稽で、彼自身も何が起こったのか分からずにもがいているように見えた。倒れ込んだ彼の右足だけが、まるで地面に張り付いたように固定されてた。罠に掛かった獲物のような金城は、その場を逃れようとひたすら身をよじった。
「……あ――金城君!」
 ふいに中務が叫んだ。俺を睨みつけていたその冷たい瞳は今や大きく見開かれ、金城の足元を凝視している。
 真壁もその異常に気付き、叫んだ。
「金城君――あ、足……!」
 その声に目を向けると、金城の足と地面の間の闇に、何か白いものが見えた。
「……?」
 目を凝らしてよく見ると、その白いものは金城の足首にまとわりつき、絡みついていた。それは、金城がもがく度に、闇の中で頼りなくゆらゆらと蠢いた。闇に透けるその存在からは、獲物を捕らえて離さない強い執念のようなものを感じた。
 ――それが、地面から伸びた人の手だと理解するのに時間はかからなかった。
「う……うわあぁぁ!」
 金城は悲鳴を上げた。その手から逃れようと、仰け反りながら必死で俺達に助けを求めてくる。
 しかし、俺達はただただ恐ろしく、目の前の光景を凝視することしかできなかった。まるで金縛りにあったかのように身動きが取れない。
 手は、金城の足首をきつく締め上げ、爪を立てた。
「た……助けてくれ!」
 金城が叫ぶ。
 凍りつく俺達の耳に、浅倉の哄笑が聞こえてきた。
「言うたやろ、これが復讐や。――逃げられへんで」
 その冷徹な言葉を聞いた瞬間、俺はなぜか浅倉にはめられた、と思った。一体何の目的があるのか、浅倉の真意は全く読めなかったが、ただ、俺達をうまく利用して霊を呼び起こしたのだろうと推測ができた。その霊とは、信じたくは無いが……おそらく、立花優なのだろう。先ほどの憎悪に満ちた瞳を思い出す。
 しかし、もし立花の霊が俺達によって呼び起こされてしまったのだとしても、それで、一体浅倉に何の利益があるのだろうか。それが分からない。
 もしや、浅倉は、実は立花の親友か従兄弟、あるいは兄弟なのだろうか。だから立花の霊を呼び起こすことで、立花自身に、生前果たせなかった俺達への恨みを、死者の復讐≠ニいった形で遂げさせようとしているのだろうか……。
 素早く考えを巡らせてはみたが、やはり、俺には解らない。
 だが、今目の前で起こっていることは紛れも無い現実であること、そして、このままむざむざと得体の知れない復讐を待つよりも、今すぐここを離れて遠くに逃げたほうがいいということだけは、直感で解った。
 ――金城を助け出し、女子を連れて中学校≪ここ≫を出なければならない。
 ようやく、俺の脳はこの非現実的な方程式の答えを導き出した。俺は、こんな異常な状況をすんなりと受け入れてしまった自分が可笑しかった。いつもの俺とは違う……そう、その時は感じていた。ただ教室で学び、淡々と知識を得ているだけの毎日とは明らかに違う、この夜。
 ――とにかく、今は金城を助けなければ。
 そう思った瞬間、俺は皮肉にも浅倉と目が合ってしまった。
 “どうするつもりや?”
 浅倉の目がそう言っていた。そして、にやりと笑う。
 俺はなぜかカッとなった。湧き上がる怒りが俺の中の恐怖を消し、金城のもとへ駆け寄る力を与えた。
「金城!」
 俺は金城の腕を取り、みんながいる方へ引き寄せようとした。しかし、彼の足首に巻きついている手によって、それは阻まれた。
 金城は、あまりの恐怖に錯乱したのか、足首の痛みを喚きながら、助けようとしている俺にも手足をバタつかせて抵抗した。
「金城、しっかりしろ! ――立て!」 
 それでも名前を呼び、俺が無理に抱き起こそうとすると、金城もようやく正気に戻ったのか、はっと俺の目を見た。そして、即座に自力で立ち上がろうともがいたが、それでも手は外れなかった。闇に透けた白い手は、その頼りない見た目とは裏腹に、人外の凄まじい力を持っていた。
 真冬の校庭で汗だくになる俺達を、朝倉が高みの見物と言わんばかりに見下ろしている。
 その時、俺達のやり取りを眺めていた中務が、ふいに、俺と金城の間に割り込んできた。彼女が白い手に向かって何かを素早く呟くと、蠢く手はふいに動きを止め、掴んでいた金城の足をパッと離した。
「今よ、走って!」
 中務の凛とした声に、俺は呆然とする金城の脇を抱え、立ち上がらせた。三人で、泣き顔で佇む真壁のもとへ走る。
 ――今のが、中務の霊感≠ノよる力なのだろうか?
 俺は、初めて中務を凄いと思った。
「へえ……やるやんか」
 背後で、呑気にそう呟く浅倉の声が聞こえた。
「真壁、門の外に!」
 俺が走りながら叫ぶと、真壁ははっと我に返ったようになり、追いついた中務と共に、校門めがけて一目散に駆け出した。
 俺達の前に、黒く輝く鉄の扉が立ちはだかる。その見慣れた門は、俺達の力でもすぐに乗り越えられるものだった。
 しかし、俺達が門に手をかけようとした瞬間、ふいに、周囲の景色がぐらりと歪んだ。
「まだまだ、これからや」
 眩暈のような感覚の中、含み笑いをする浅倉の声が耳の奥に反響した……。