作品タイトル『桜の花が開く瞬間-とき-』

 俺の通っている中学校には、何とも不愉快な伝説がある。いや、あった……と言った方が正しいのかもしれない。なぜなら俺は、もう何も分からない中学生ではないからだ。
 俺は、今日から高校一年生になる。皮肉なほど晴れた青空の下、俺は真新しい制服に身を包み、校門に立った。
 少し古びた白亜の校舎。ライバルである、俺と同じ新入生達。そして、日本中どこに行っても変わらない、絵画のように作り上げられた桜の景色……。
 俺がずっと、切望してやまなかったエリートコースへの道は、今日、確実にその一歩を踏み出す。
 しかし、今日この高校の大きな門をくぐる俺の気持ちは、中学までの凍てついた感情とは明らかに違っていた。 それも、広い校庭の片隅に、一本だけはぐれたように咲く桜の木を見つけたからかもしれない。
「あの木≠ヘ……今年も、咲かないんだろうか」 
 俺の独り言は、春の暖かいそよ風に吹かれ、無数の桜の花弁と共に空高く舞い上がっていった。
 ゆっくりと目を閉じて、俺は、静かに懐かしい記憶を呼び起こす。




1.夜の校庭

 ――俺の中学校には、春に絶対咲くことの無い桜の木がある。正確には、その木はどういう訳か真冬に狂い咲きをし、春には芽吹く仲間たちを横目に、一人凛々しい枝を剥き出しのまま広げるのである。
 伝説≠ニは、その桜の木が発端の、ただのくだらない噂話だった。
「あの桜の木が満開の日の夜中、2時ちょうどに木の下に行って『どうぞ怨みをはらしてください』って三回言うとね、この学校で無念に死んでいった幽霊達が現れて、自分が死ぬ原因になった人に復讐するんだって。交通事故ならその運転手、もし自殺なら――」
 そこまで自分を追いつめた張本人に……
 そして、幽霊を呼び出すことのできた証として、狂い咲きの桜は一晩で全ての花を散らしてしまうのだという。
 しかし、俺はその噂を端から信じてはいなかった。なぜなら、噂が立ち始めた時期から一度も、俺は幽霊に復讐された奴の話も、ましてや桜の花が一晩で散るなどという非現実的な場面にも遭遇したことがなかったからだ。
 ただその噂は、どこか俺の心の片隅に引っかかっていた。きっと、一年生の冬に校舎の屋上から飛び降り自殺をした、立花 優≪すぐる≫のことが少なからず気にかかっていたからだろう。立花が飛び降りた場所こそが、紛れもない例の桜の木の傍であり、思えばその頃から、桜の木の時間≪とき≫は少しずつ狂い始めていったのだから…――。


「――あれッ、冬堂君!」
 真っ先に声を上げたのは、クラスメートの真壁日菜子だった。深い闇の中でもよく通る明るい声。
 夜の校庭に集まったのは、俺を含めて五人だった。それも、とても奇妙な取り合わせだ。普段の学校生活の中でならおおよそ会話もしないメンバーばかりである。
 ――三年生の冬。期末テスト最終日の今日、例の狂い咲きの桜は見事に満開で、12月初めだというのにそこだけが暖かな春を演出していた。それは、受験生である俺達にとっては喉から手が出るほど待ち焦がれている光景であり、木枯らしが吹きすさぶ早朝でさえ、登校中にじっと美しい花びらを眺め、現実逃避をする者も少なくはなかった。
 だだ俺だけは、チラッとそれを見ただけですぐに視線を手の中の問題集に落とし、木の横を通り過ぎようとした。兼ねてから志望していた超有名進学校への受験まで秒読み段階に入ってしまった今、一分一秒でも無駄にはできないのだ。
 しかし、ふいに正面から大きく風が吹き、寒さで赤くなった俺の頬を凍てついた空気が通り過ぎた瞬間、視界を、淡いピンク色の花びらが横切った。その夢のような美しさに思わず行方を目で追った俺は、すぐ傍で輝く真っ白な新校舎の壁に、無造作に立てかけられている小さな花束を見つけた。
 ――一体、誰が献花したんだろう……。
 俺は、そこからゆっくりと視線を上げ、屋上を見た。淡い空めがけて、錆付いた金網が無機質に伸びている。
 忘れもしない、二年前の今日、クラスメートの立花優は屋上から飛び降りた。いつもなら立ち入り禁止とされ厳重に鍵を掛けられているはずの屋上は、当時、新校舎改築のため業者が自由に出入りできるように開け放たれていた。その上、工事のために大きなヴェールで包まれ、すっぽりと外界を遮断されていた校舎は、屋上にある高い金網すらも、組まれた鉄材を足場に、楽に飛び越えられるほど容易なものになってしまっていた。
 ――立花は、遺書も何も残さず、誰もいない深夜の学校で、ひとり、命を絶ったのだ。
 あれから完成した新校舎は、冬の淡い陽の光すらも容赦なく跳ね返す毒々しい存在となった。改築直後の真新しい壁も廊下も設備も、全てが忌まわしい出来事の上に成り立ったものだと思うと、そこで学ぶ俺達生徒は常に居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
 備えられた花束は、壁にもたれかかりながらポツンと突っ立ったまま、木枯らしに耐えるように薄い花びらを揺らしている。その花の色はあまりに哀れで、まるでそこに置き去りにされた忘れ物のように見えた。もし持ち主がいたとしても、その人物はもう二度と取りには来ない、いや、来られないのだ、この忘れ物を……。
 柄にもなく物思いにふけった時、ふいに、俺は桜の木の伝説を思い出した。深夜、満開の桜に向かってある言葉を唱えると、この学校で死んだ幽霊が現れ、生きている人間に復讐をするという……。
 ――立花は、一体どんな思いで死んでいったのだろう……。
 自分で思った言葉に、俺ははっとした。そんなことは、今まで一度も考えたことがなかったのだ。他人のことなどどうでもいい、自分がこれから先どういう人生を進んでいくか、そのために邪魔な人間がいればそいつを排除してまた進んでいく、自分の経歴≪キャリア≫のためにひたすら前だけ見て歩いていく……それが俺のはずだった。なのに……。
 俺は答えを求めるかのように、傍で誇らしげに枝を伸ばしている桜の木を眺めた。暖かな光を宿すその木は、まるで何かを物語るかのように、俺の真上で静かに花びらを散らしていた……。
 ――そしてその夜……つまり今夜、俺は誰もいない校庭にやって来ていた。昼間とは違って空気は格段と冷え、マフラーや手袋が意味を成さないほど肌がピリピリと痛んでくる。街灯だけが生きる深夜、校舎は沈殿した闇の塊のように不気味な雰囲気を醸し出していた。真冬特有のピンと張り詰めた空気が、俺の心を震わせる。
 なぜ、俺はここへやって来たのだろうか。本来ならば、今の時間は寝る間も惜しんで机に向かっていなければならないのだ。それこそ、夜食を食べる暇すらもないほどに。
 なのに、俺は今ここにいる。きちんと閉じられた黒い鉄の門を乗り越え、闇の中で、遠くの淡い街灯に輝いている桜をじっと見上げている。当然のことながら、別に真冬の夜桜を楽しもうという気分ではない。だったら、俺は……一体、ここで何をしようというのだろうか?
 ――そんな時だった。
「冬堂君じゃない、どうしたの? こんな夜中に」
 セミロングの髪を震わせながら、いつも通りの明るい笑顔で真壁 日菜子が俺に歩み寄ってきた。真壁は新聞部に所属しており、いつも記事のネタを探して奔走している、クラスでも人気者の元気少女だった。
 真壁は、大きなマフラーと厚いコートを着込んでいたが、なぜかその下は短いスカートを穿いていた。それが女子のオシャレというものなのかもしれないが、凍てつく真冬に好き好んでスカートを穿くという行為が、どうも俺には理解できなかった。まあ、似合っているから別にいいのだが。
「……真壁こそ、ここで何してるんだ?」
 少し驚きながらも、俺は至って冷静に答えた。真壁が満面の笑みを浮かべる。
「私? 私は、この桜の木の取材に来たのよ。今回の記事で中学三年間の部活動も終わるんだもん、最後はパァーッとシメたいじゃない?」
「……伝説≠ナか? 幽霊の記事なんて、載せられるのか」
 冷たく問う俺。
「大丈夫! 今回はアシスタントを一人雇っておいたから。ね? 晶≪あきら≫ちゃん」
 その言葉に答えるように、真壁の後ろからほっそりしたシルエットが現れた。整った顔立ち、大人びた表情、すらっと伸びた肢体に、腰までのストレートヘアがよく似合う。隣のクラスの女子、中務≪なかつかさ≫晶がそこにいた。意外な人物に、俺は無意識に、ずれた眼鏡を中指で押し上げた。
 中務は、美人だが浮いた話がひとつもない、珍しい女子だった。それも、まことしやかに囁かれている彼女の噂のせいだろう。
「晶ちゃんね、みんなから霊感があるって言われてるでしょ? あれってホントのことなの。昔から霊感があるんだって。だから、今日無理言ってここに来てもらったの」
 中務は、真壁の隣で押し黙ったまま、俺に冷たい瞳を向けた。
 正直、俺は霊などいった非科学的な話が好きではなかった。このめまぐるしい世の中、自分の目で見たもの以外の何かを信じることのできる人間なんてそうそういない。ただ毎日生きていくだけで精一杯なのに、どうしてそんな根拠のないものの存在を認められるだろう?
 俺は、ガラス玉のような中務の瞳を直視できず、視線を逸らした。霊感があるだなんて、こいつは変な女だ、そう思った。
 しかし、その美しく弧を描いた彼女の唇から、俺に信じ難い言葉が紡がれた。
「委員長の……冬堂 恵≪めぐむ≫君、だったわよね? 何か後悔することがあるのなら、早めに気持ちの整理をつけたほうがいいわ。後々、辛いわよ」
 中務は、俺の目を見てハッキリとそう告げた。俺は、ギクリと体を強張らせた。
 ――後悔……?
 この女……俺の、何を知っているっていうんだ……?
 中務の意味深な発言に、真壁はきょとんとした表情で俺と彼女の顔を見比べた。
 後悔
 ……だから、俺はここへ来たのか……? 立花に対して、後悔しているから……?
 俺は、まるで中務に心の中を見透かされたような気持ちになり、思わずこみ上げてきた醜い衝動を、ぐっと堪えた。
 こんな女に何がわかる……。何も言うな……考えるな。関係ない、俺は何も。
 俺は、気を取り直すように真壁に向き直った。
「……で? 今からどんな取材をするんだ、真壁」
 笑顔で答える真壁。
「もちろん、例の伝説の通りにやってみるのよ。この桜の木に怨みをはらしてください≠チて唱えてみるの。晶ちゃんがいるから、きっと何か起こるわ」
 無邪気な子供のように微笑む真壁。
 中務はそんな彼女の言葉に一瞬曇った表情を見せたが、真壁はそれに気づいていないのか、一心に桜の木を見上げいる。  
 これまで、この二人が仲がいいという話は一度も耳にしたことはなかったが、人懐っこい真壁が名前で呼び、しかも中務自身もそれを拒否せずに、夜中にわざわざ校舎まで出向いてきているところを見ると、なかなか親しい関係であることが想像できる。ただ、意外な組み合わせであるというだけで。
 ふいに、真壁が俺を見る。
「ね、……もしかして、冬堂君も伝説を信じてここに来たの? 普段クールで勉強以外興味なさそうだったけど、意外とロマンチストなのね」
 その言葉に、俺は否定もできずにただ沈黙した。俺自身が、ここに来た理由が分からないのだ。こんなことは初めてだった。
「ねえ、冬堂君も一緒にあの言葉唱えようよ。人数多いほうが、何か起こった時面白いでしょ?」
「……日菜子」
 中務が遮る。「やっぱり……やめたほうがいいわ。夜の学校は、否が応でも霊が集まってくるのよ」
「じゃあ余計に好都合じゃない、いい記事になるわ」 
 真壁はあっけらかんと笑う。
 苛立ったように中務が口を開こうとしたその時、突然、校門の外でけたたましいエンジン音が轟いた。音は、静まり返った民家と校舎の壁に激しく反響しながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「暴走族?」
 真壁が怖さ半分、好奇心半分といった様子で首を伸ばし、騒音のする方向を見た。中務が眉を寄せる。
 時折激しいクラクションを鳴らしながら、どうやらバイクのものらしいそれは、視界に残る人魂のようなライトを遊ばせながら校門前で止まった。凍りつく寒さの中で、二人の男の会話が断片的に聞こえてくる。その内容から、どうやら男達はこの校内に忍び込む気らしい。ついには、ガタガタと騒々しい音を響かせながら、思い鉄の門を軽々と飛び越えてしまった。
「やだ……こっちに来る」
 小さく呟き、真壁が中務の腕を掴んだ。
 男達は街灯からの逆光で黒いシルエットになっており、その表情は窺えない。
 もし、相手が俺達に絡む気であれば、俺は女子を連れて即刻この場を立ち去らなくてはならない。素手で殴り合いが出来るほど、俺は喧嘩に長けてはいないのだ。
 俺は、しばらくの間そこから動かずに、眼鏡の奥から必死で相手の姿を見極めようとしていた。
 ――? この二人、どこか見覚えがある……。
 案の定、
「なんだ、お前ら!」
 シルエットの一つから、太く馬鹿でかい声が聞こえた。いつも教室で聞き慣れている声である。
 身構えていた真壁が、恐る恐る目の前の相手を見つめた。
 そこに現れたのは、最も意外な人物だった。
「――金城≪きんじょう≫君じゃない! 何してるの、こんなところで?」
 真壁が目を丸くして叫んだ。俺も同じ気持ちだった。ある意味、暴走族よりも意外な人物なのだ。
 色黒で筋肉質の金城 茂彦≪しげひこ≫も、俺達の奇妙な取り合わせにあっけにとられていた。真っ赤に染めた髪に迷彩柄のコートを羽織り、その場に立ち尽くしている。
「……それは俺のセリフだろ。何してんだよ、お前ら」
「私達は取材よ。金城君は?」
 私達=c…。なぜか、俺まで真壁の仲間にされてしまった様子だが、金城はそれについて特に気に留める様子もなく、深く息を吐いた。白い息が一瞬宙を舞い、消える。
「俺は、夜遊びの帰りだよ。さっきまで、浅倉と高速、飛ばしてたんだぜ」
 金城が自慢げにニヤニヤ笑う。
「バイクで? ……浅倉君と?」
 真壁が、金城の隣にいる長身の男を見た。
 確か、浅倉 幸浩≪ゆきひろ≫という男だ。少し伸びた茶髪と長身が目印の、校内きっての風来坊である。同学年とは思えないほど大人びた容姿なので、ダブりだという噂が絶えない。クラスは違うが、今年やって来た転校生で、まだまだ謎の多い男である。
 浅倉は、珍しそうに自分を眺める真壁に嫌悪感を抱く様子もなく、快活な笑顔を向けた。
「俺は、浅倉幸浩や。よろしくな」
 微妙に、発音が違う。関西からの転校生なのだろうか。
「私、真壁日菜子。こっちは友達の中務晶ちゃん。で、クラス委員の冬堂恵君よ」
 真壁が一人一人紹介していく。その度に、浅倉は視線を合わせ微笑んだ。
「……にしても、真壁、お前本当、部活バカだよなあ」
 と、金城。「この時間にここにいるってことは、例の桜の木の取材なんだろ? 寒い中よくやるよなあ」
「何よ、金城君だってバスケ部じゃない」
「俺はサボり魔だからよ」 
 金城がにやりと笑う。
 金城は、俺達のクラスのボス的な存在であり、普段は他の三人とつるんで好き勝手な学校生活を送っている。委員長である俺の言うことも一度も聞いたことがなく、俺の見解上、金城は社会に適合できない種類の人間だった。一言で言えば不良である。進学もしないつもりなのか、今回のテストも受けずに毎日遊び回っているという話だった。おまけに、夜中にバイクの無免許運転で高速道路を走っていたなど、救いようがない。
 金城は俺の姿を見止め、皮肉な笑みを浮かべた。
「お前も真壁に付き合わされたのか。大変だなあ、委員長≠ヘ」
「……そうか?」
 俺がそっけなく答えると、金城は下品に笑った。つまらない人間だ。
 一年生の頃、俺と真壁、金城、そして立花は同じクラスだった。立花は金城達のグループに酷いいじめを受けており、衣服の下など見えにくい部分に度々怪我をしていた。俺は、立花はいじめを苦に自殺をしたのだと考えているが、当時、学校側がマスコミへの取材にいじめは無かったと公言してしまったため、今や、立花の自殺の原因を知る者は一人もいなかった。……そう、全てを知っているのは立花本人だけなのである。
 そして、今日は立花の命日だった。
 ――そんなことを思う俺の横で、真壁は初対面の浅倉とクラスの嫌われ者である金城をも記事の協力者として引きずり込もうとしていた。もともと、真壁は社交的で、初対面の人間とも円滑なコミュニケーションができるという、万人が羨む高等技術を持っていた。だから誰からも好かれ、いつも笑顔でいることができるのだろう。
 しかし、その笑顔も、立花の自殺を機に微妙に変わり始めたように思う。
「……じゃあ、二人共、この桜の木を見に来たの?」
 と真壁。
「ああ、この桜の話したら、浅倉がどうしても見たいって言うからさ」
「当たり前やろう! そんなおもろそうなネタあるんやったら、もっと早う教えてほしかったで」
 浅倉が口を尖らせる。その表情は、15歳相応のものだった。そしてそのイントネーションの違いは、やはり関西の人間のようだ。
「じゃあ、決まりねっ! 二人共、記事に協力してね」
 真壁の笑顔に、金城と浅倉は苦笑しながら頷いた。
 ――こうして、深夜の校庭に実に奇妙な五人が集結することとなったのである。