作品タイトル『メル友』

第三夜:【チャット】 U

「さ、なんでも好きなもの注文してよ」 
 カオルの声に、カナは露骨に不機嫌な顔を向けた。
 そこは、カナの会社の傍のファミレスだった。昼休み、ランチに出かける彼女を呼び止め、カオルが強引に連れてきたのだ。
「……何か用なんですか?」
 レイカの前で見せていた無邪気な笑顔は一切なく、カナは運ばれてきたオレンジジュースを下品な音を立てて啜った。
「うん、ちょっと話したいことがあって」
 カオルがコーヒーカップを持ち上げる。
「じゃあ早くしてください、あたし、忙しくって」
 面倒くさそうに腕を組むカナ。
「じゃあ、単刀直入に言うよ。レイカとのことなんだけど」
「……レイカ?」
 カナの表情が侮蔑のそれに変わった。「あのぉ。カオルさんて、本当にレイカのこと好きなんですか?」
「そうだよ」
 真剣な表情でカナを見つめ、「俺は――本気で、レイカのことが好きだ」
 はっきりそう告げると、カナは声をあげて笑い出した。
「あははッ、ほんとにぃ? ふふ、ばっかみたい」
 三人でいる時とは別人のように下品に笑うカナ。
「あのねぇ、あなたってぇ……」
 カナが身を乗り出した瞬間、カオルは持ち上げていたコーヒーカップをわざと机の上に落とした。固い音と共にカップが弾み、カナの制服の胸元に大きな染みを作った。
「きゃあ!」
 計算通りだった。
「あ……ごめん」
 ハンカチを取り出すが、カナはその手を払いのけた。
「もお〜ぉッ最悪! トイレ!」
 カナが慌ただしく席を立ち、店の奥に駆けていった。
 カナの姿が見えなくなった瞬間、カオルは素早くカナがいた席に回り、彼女の鞄を探った。派手にデコレーションされたケータイを見つけると、自分のケータイにブックアークしておいた、例のURLを打ち込んだ。
 カナのケータイ画面に『サイト・受信』という文字が現れる。
 カオルはにやっと笑い、素早くボタンを操作すると、周囲を気にしながら彼女のケータイを再び鞄に戻した。何食わぬ顔で元の自分の席に座り直す。
 しばらくすると、派手にヒールの音を響かせながら、カナが化粧室から戻ってきた。
「……っとに、いくら洗っても落ちないしぃ!」
「あの、ごめん、クリーニング代払うよ」
「結構! その代わり、もう二度とここへは来ないでね。顔見たくないから!」
 吐き捨てるように言って、カナは店を出て行った。
「……それはこっちのセリフだ」
 呟き、カオルは小さく舌打ちをした。

「カナが……カナが」
 夜遅く震える声で電話をかけてきたのはレイカだった。カオルがカナと二人きりで会ったあの日から、わずか二日後のことだった。
「カナが……カナが、死んじゃったの……」
 電話口の向こうで泣きじゃくるレイカ。
 カオルはひたすら彼女をなだめながら、初めて、一人暮らしのレイカの部屋へ向かった。
「あのカナさんが、亡くなったって……本当か?」
 フェミニンなインテリアに囲まれたレイカの部屋で、二人は並んでソファに腰かけていた。幾分落ち着いた様子のレイカが淹れたコーヒーの香ばしい香りが二人を包む。
 レイカは小さく頷き、交通事故だったの、と呟いた。
「カナが、深夜に車を飛ばしてて……なぜか急に対向車線にはみ出したんですって。それで、ダンプと正面衝突して……カナは……」
 言葉に詰まるレイカ。「嘘みたいよ、こんなこと……」
「レイカ……」
「警察は、カナのハンドル操作のミスだって言うのよ。そんなの……信じられない。カナがもう……いないなんて」
 震えながら小さくなるレイカ。その肩をそっと抱き、カオルは彼女を引き寄せた。
 レイカは、カオルの腕の中で声を押し殺し泣いた。
 カオルはただ黙って、心に傷を負った愛しい恋人を抱きしめ続けた。
 二人は、お互いの体温を確かめ合いながら眠りについた。

 カナの事故から二週間。
 二人は、また以前のように付き合うようになった。毎日のチャットと電話、週末のデート。
 レイカは友人を失ったショックから少しずつ立ち直りつつあった。常に傍に寄り添うカオルに、彼女は敬愛の念を示すようになり、カオルは再び幸せの絶頂にいた。
 ――ああ、これがレイカと俺との本来の姿なんだ。
 もう二度とレイカを離したりしない。レイカのいない生活はもう考えられない。
 俺の居場所は、ここなんだ。
 例え許されない恋だとしても、これから先ずっと、レイカと一緒に生きていきたい。
 彼女も、俺を必要としてくれている。二人一緒なら、きっと何も恐れることはない。
 ――カオルは幸福に酔いしれていた。
 レイカと築くはずの輝かしい未来を、信じていた。


「――レイカ?」
 今目にしたものが信じられず、カオルは何度も目をこすった。
 繁華街を男と腕を組んで歩いていくのは、確かに自身の恋人の――レイカだった。いつもの彼女には似つかわしくない露出の多い服をまとい、軽薄そうな若い男と親しげに身を寄せ合っている。
 慌てて後を追うと、カオルの目の前で、二人は当然のような軽い足取りでラブホテルに入っていった。
 ――頭の中が真っ白になる。
 ……うそだ。うそだ。
 俺のレイカが、そんな……嘘だ。――嘘だ!
 レイカに、俺以外の誰かがいるなんて……そんなこと、有り得ない……有り得るはずがない!
 カオルは帰宅するなり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 ――信じている、俺は、レイカのことを信じている。
 だけど、それは俺だけの感情だったのか?
 ……いや、違う。レイカも、俺のことを愛してくれている。
 見間違いだ、きっとそうだ。
 いてもたってもいられず、何度もレイカに電話をかけるが、彼女は出ない。
「あの男と……いるのか?」
 気が狂いそうだった。
 ――有り得ない。あんな男と、レイカが付き合うはずがない。レイカの恋人は俺だけのはずだ。
 もしあれがレイカだったというなら……きっと、あの男に無理矢理つき合わされたんだ。そうだ。
 そうじゃなければ……俺のレイカが、俺を裏切るはずがない!
 深夜までレイカに電話をかけ続けたが、結局その夜は一度も繋がらなかった。

 翌日の夜、カオルは意を決してレイカの部屋を訪ねた。
「……あら、カオル」
 レイカはいつもと変わらない上品な笑顔でカオルを出迎えた。
 カオルが彼女の部屋に入るのは、カナが亡くなった時以来だった。
「昨日の夜は電話に出られなくてごめんね、急な残業で会社にカンヅメだったの」
 コーヒーを淹れながらレイカが微笑む。「なにか、急用だった? それとも……」
 カップをカオルの前に置き、レイカはいたずらっぽく笑った。
「そんなに、私に会いたかった?」
 真横で花のような笑顔を振りまく恋人を、カオルは沈痛な面持ちで眺めた。
「? どうぞ、飲んで?」
 レイカが隣に座る。ソファがきしむ。
 カオルは、太ももに愛しいレイカの体温を感じながら、大きく深呼吸した。
「……本当は、昨日の夜どこにいたんだ?」
「え?」
 真顔になるレイカ。「だから、急に残業で……」
「――昨日の昼、繁華街で見かけたよ」
 レイカの表情が強張る。
「ああ……お昼休み、友達とランチに出たから」
「友達って、男かよ?」
「……カオル」
「――あんな派手な格好で、あんな軽そうな男と……ベタベタして――どういうことだよ!」
 カオルの叫びに、レイカは無表情になった。
 しばらく沈黙した後、
「……そう、見られてたの」
 レイカがゆっくりと微笑んだ。「じゃあ、しょうがないわね」
 いつもと雰囲気が違う。
「……レイカ?」
「そうよ、あれが本命の彼氏。私と彼、付き合ってるのよ。あんたと違って、本気でね」
 ――何を言われているのかわからない。
 蒼白になるカオルを眺め、レイカは高らかに笑った。
「バカねぇ、私、ノーマルよ? 女なんかと本気で付き合うわけないじゃない」
「そんな……」
「だからね、カオル。私はちゃんとした男性と付き合うから、あなたはもう諦めてよ。ね?」
 そう言い放ち、レイカはカオルのカップを下げ、中身をシンクにぶちまけた。
「これでお終い」
 レイカは鼻歌を歌いながらカップを洗い始めた。
 半月前震えていた彼女の肩が、今は嬉々とした感情に包まれているのがわかる。
 レイカの背中を見つめ、カオルは心の奥からふつふつと湧いてくる負の感情を抑えられなくなっていた。
 気付いたときには、とんでもないことを口走っていた。
「レイカ……俺にむかってそんな口をきいていいのか? 俺は、その男を……いや、レイカ自身をも殺すことができるんだぞ」
 鼻歌がピタリと止んだ。
「ウソだと思うだろう? でも、本当だ。カナのことだよ。俺がカナを死へ導いてやったんだ」
 その言葉に、レイカはゆっくりと振り返った。
「知ってるわ。あの呪われた掲示板≠ナしょう?」
 レイカは残忍な笑みを浮かべていた。
「レイカ……どうして、それを……」
「すべては、偶然だったの」
 レイカがゆっくりとカオルに歩み寄る。
「あの日……偶然、あのファミレスの前を通ってね。中に二人がいるのが見えたから、気になって様子を窺っていたのよ。そしたら――」
 カオルは、化粧室に立ったカナのケータイを開きなにやら操作をしていたが、周りの目を気にしながら再度自分の席に着くと、戻ってきたカナと食わぬ顔で会話をしていた。
「はじめは、あなたがカナのメールでも盗み見したのかと思ってた。だけど、その二日後にカナは死んだ……しかも、交通事故で。車の運転には人一倍慎重だったカナにしては、おかしいと思ったの」
 ――その時、レイカの脳裏に呪われた掲示板≠フ噂が蘇った。
「カオルは気付いたのよね? あの死の呪い≠フルールに」
 レイカの言葉に、カオルは唾を飲み込んだ。冷たい汗が首筋を伝う。
「あの掲示板の呪い≠ヘ、コメント欄に表示された日付の日に発動する。けれど、それが発動する相手は、書き込みをした人じゃない。呪い≠ェ降りかかるのは、書き込みに使われたケータイ端末の所有者≠セということに」
 呪いを受けるのは書き込みをした人間≠ナはなく、書き込みの媒体として使われたケータイの持ち主=B
 ――だから。
「頭のいいカオルのお陰で、私も気付いたの。あの掲示板を使えば私にも簡単に人を呪い殺せるってね。そう、あなたのように、相手のケータイさえ奪うことができれば……」
 意味深な瞳で微笑むレイカに、カオルは思わずゾッとした。
「レイカ、まさか……俺のことを……?」
 自分のケータイを握り締め後ずさるカオルの姿に、レイカは心底楽しそうに笑った。
「ふふっカオル、今更気付いても遅いわよ。二週間前、あんたがここに泊まりに来た日、あんたが寝ている隙に、あたし……一体何したと思う?」
 カオルは激しい眩暈に襲われた。
 震える指でケータイを開き、件のサイトへ飛ぶ。
 そこには『カオル』という名の書き込みがあった。
「分かりやすいでしょう? あんたのそのままの名前を入れてあげたのよ。表示されている日付は今日……。残念だったわねぇ」
 初対面のあの時、あまりの美しさに見とれた彼女の桜色の唇。多くの愛の言葉を囁いていたはずのそれは、今、カオルの目の前で別の生き物のように歪み、艶めいていた。
 部屋中にレイカの嬌笑が響く。
 ――ああ、どんなに残酷な言葉を紡いでも、レイカの笑顔はやっぱり美しいんだ……。
 空虚な心の片隅で誰かがそう呟くのを聴いた。
 カオルはそのまま部屋を飛び出すと、躊躇いなく、警笛が鳴り響く線路に身を投じた。
 呪い≠フ運命を先回りして自殺≠したのは、おそらく彼女が初めてだっただろう……。