作品タイトル『メル友』

第一夜:【受信】 W

 電車の乗り換えに手間取り、約束のお店に着いたのはもう22時半だった。
 閉店すると言うボーイに尋ねてみたが、てつやらしい男性客は見なかったという。元々、店自体カップルか家族連れを好む雰囲気で、そこに一人きりの男性客がいれば目立つはずだった。
 てつやは、店の予約もしていなかった。
 ――もしかしたらてつやさん、外で待ってたのかな。
〈てつやさん、お仕事で遅れてしまってごめんなさい。怒ってますよね……? ちゃんと謝りたいです、お返事をください……〉
 何度もメールを送るが、相変わらず返事はない。
「もう、本当に嫌われちゃったんだ……」
 それはそうよね、初めて会うのに、大遅刻したんだもん……怒って当然だわ。
 それでも未練がましくケータイを見つめていると、ふいに画面が変わった。
〈受信中です〉
 ピリリリリッ。メールの受信音。
 開くと、てつやからのメールだった。
〈今メールに気付いた。仕事だったんだね。すっぽかされたと思ってたからケータイ見てなかったよ〉
 いつもより冷たい口調。
 私は慌てて、それは誤解だと返信した。
〈本当にごめんなさい! 仕事がトラブって、メールもできない状態で……連絡できなかったんです。今お店に着いたんですけど、遅すぎですよね……。本当にごめんなさい〉
 精一杯の謝罪の気持ちを込めて送ったつもりだった。しかし。
〈そうなんだ……閉店ギリギリまで待ってたんだよ。嫌われたのかと思って、すごく寂しかったよ〉
〈本当にごめんなさい……あの、今度、埋め合わせさせてもらえませんか? 私のオススメのお店とかで……〉
 なんとか機嫌を直してほしかった。
 ピリリリリッ。
 てつやからの返信。
〈それでもいいけど……。よく考えたら、仕事で疲れてるのにわざわざここまで来てくれたんだよね。せっかくだし、ねぎらう意味でも、お茶ぐらいしない?〉
〈えっ、てつやさん、まだ近くにいるんですか?〉
 ピリリリリッ。
〈いるよ。駅に向かおうと思って歩いてたところだったから。今は公園で一休みしてる。目の前に、遅くまでやってるカフェが見えるよ〉
 申し訳ないと思う気持ちが、一刻も早く会って謝りたいという感情に変わっていた。焦っていた。
〈じゃあ、私、そっちに向かいます。駅の方向ですよね?〉
 ピリリリリッ。
〈うん、すぐわかるよ、レストランの裏にある大きい公園だから。……さっきはごめんね、大人げなく怒って〉
 いつものてつやの口調に戻ったような気がして、私は少しほっとした。
〈とんでもないです、イヤな思いをさせてごめんなさい。すぐに向かいますね〉
 店の明かりが消えたレストランを横目に、私は裏へと回った。
 二軒続く民家の先に、外灯に照らし出された石の門が見える。
「あそこ……?」
 門に立つと、夜空を埋め尽くす大木の群れが一斉にしなった。頭上でざわめく不快な音を聞きながら、薄暗い広場に足を踏み入れる。おそらく昼間は家族連れの憩いの場であるそこにはねっとりとした空気が流れ、点在する遊具が外灯に浮かび上がり不気味な影を落としていた。広場の隅に澱む濃い闇に、息を潜めた何かが潜んでいそうな気さえする。
 ――なんでこんな気味の悪いところに……。男の人でも怖いと思うんだけど。
 カフェで待ち合わせしましょうって言えばよかった……。
 そう思って見渡してみたが、そう言えば、広場を囲む木々の隙間から漏れるのは、淡い街灯の光のみ。公園の周囲を囲む家々の窓は暗く、古ぼけた町並みが連なっている。
 大通りから一本奥まった廃れた住宅街。こんなところに、遅くまで営業しているカフェがあるとは思えなかった。大方、件のレストランがこの辺りで唯一の飲食店だろう。
 ――カフェなんて見当たらないけど……。てつやさん、本当にここにいるのかな……?
〈公園に着きました。どこにいるんですか?〉
 メールを打つと、すぐに画面が切り替わった。
〈受信中です〉
 ピリリリッ。
〈奥の、電車の中です ――てつや〉
 電車=H
 見回すと、奥にある茂みの向こうに何か建物が見えた。
「あれは……?」
 警戒しながら進むと開けた場所に出た。
 ひとつしかない外灯に、安っぽいおもちゃのような塗装を施されたバスのようなものが照らし出されていた。よく見ると、一両しかないステンレス製の電車を模した遊具だった。とは言うものの、見た目の幼稚さとは裏腹に、全体の大きさはほぼ実物大に見えた。全体的に丸みを帯びた電車≠ヘ、子どもが遊ぶためだろう、後部の入り口部分と等間隔に並ぶ窓の部分が大きくくり抜かれている。側面の窓から差し込む光によって、車内にボックス型の座席のような造りが窺えた。しかし、運転席付近の車内には窓がなく、光が届かないその一角は闇一色だった。
 正直、ゾッとした。
 ――ピリリリッ。
 突然ケータイが鳴り、私はすくみあがった。鼓動が速くなる。
 てつやからのメールだった。
〈電車の中にいるよ。入ってきて ――てつや〉
 思わずバイブレーションモードに設定し、返信する。
〈本当に中にいるんですか? ちょっと、怖いんですけど……〉
〈受信中です〉
 ブーン、ブーン。
〈大丈夫、ちゃんといるよ。渡したいものがあるんだ、サプライズ〉
〈入らないとだめ……なんですか?〉
 気乗りがしなかった。夜風に木々がざわめく。
〈受信中です〉
 ブーン、ブーン。
〈そう、暗いところの方がキレイなんだよ。早く見せたいな〉
 再度凝視するが、窓から覗く部分に人影はなく、先頭部分は黒く塗りつぶされたように何も見えない。
 それでも。
〈わかりました……入ります〉
 ――ここまできたんだから……。
 ケータイを握り締め、私はそう自分に言い聞かせた。
 文章を見ればどんなひとかわかるし
 マユの言葉が頭をよぎる。
 そうよ、だいじょうぶ……大丈夫。
 あんなにやりとりしたじゃない。てつやさんはいつも優しくて、私の話を聞いてくれて……そう、いい人だったじゃない。
 もしかしたら遅刻した私のことをちょっと怖がらせようと思ってるとか……そんなことかもしれない。
 頭の中に、交換した彼の写メが浮かぶ。穏やかな笑顔。
 てつやさんと、やっと会えるのよ。あの優しい人に。
 ……大丈夫。
 自分を奮い立たせるように短く深呼吸をし、私は電車の中へ入った。
 カツン。
 自分の靴音が大きく反響する。
 闇に視界が奪われ、一瞬平衡感覚を失った。慌ててドアを掴み体勢を立て直す。
「てつやさん……?」
 奥を覗きこみ呼んでみたが、澄んだ静寂が続くばかり。人気が感じられない。
 緊張しながら見回すと、徐々に慣れてきた視界に、奥まで等間隔に並べられた二人掛けの座席が見えた。出入り口は今立っているここだけ。窓の光も届かない奥――運転席側の造りはまだはっきりとは見えない。
「てつやさん……?」
 座席の背もたれを手探りで掴みながら、一歩一歩奥へ進む。震える自分の声がこもったように反響した。思ったより壁の厚い造りなのだろう、車外の葉擦れの音もフィルターがかかったようにぼんやりと聴こえる。
〈どこにいるんですか?〉
 思わずメールを送った。広い車内を手探りで進むのが嫌になったのだ。
 ――電話番号、聞いておけばよかった。すぐ近くにいるなら、その方が早いのに。
 焦らされているようで、恐怖が段々と怒りに変わってきていた。
〈受信中です〉
 闇の中でケータイのランプが蛍の光のように明滅する。
 ブーン、ブーン。
〈ごめんね、ちょっとからかっちゃった。後ろだよ ――てつや〉
 ――ジャリッ。
 驚くほど大きい音がした。
 振り返ると、入口に誰かが立っていた。その人物はちょうど外灯の光を避ける位置でシルエットになっており、おそらく男性だろうと言う程度の判別しかつかなかった。
 車両の中ほどに立っている私と、入り口にいるその人物とは、少し距離があった。
「てつやさん……?」
 無言だ。
 シルエットの立ち姿に違和感を覚え、今度は語気を強めて言った。
「てつやさんなの? 返事をして」
 しかし、影は無言のまま微動だにしない。
 ふと思いつき、メールを打ってみた。
〈てつやさんですか?〉
 シルエットの方から、バイブレーションの低い音が聴こえた。影が腰の辺り――おそらくズボンのポケットだろう――をまさぐると、影の一点が四角く切り取られた。
 ――ケータイを見てる?
 息を殺して様子を窺っていると、影はカチカチと音を鳴らし、画面を閉じた。シルエットが元に戻る。
 途端に、私のケータイが振動した。
 ブーン、ブーン。
〈そう、てつやだよ〉
 どうして、この人は声を出さないんだろう……?
 その時、ジャリッという音が反響した。
 反射的に顔を上げると、さっきよりもシルエットが大きくなっていた。
 ――こっちに歩いてきてる……!
 その男は、まるで床の固さを確かめるようにゆっくりと歩を進めていた。その度に、入念に踏みしめられた砂利がステンレスに擦りつけられ不快な音をたてる。
 無意識に、膝がわなわなと揺れ始めた。
 ――怖い。
 直感だった。
 逃げなきゃ。
 けど、入り口はあの男の背後にある。逃げるには、どうしてもあいつの傍を通らないといけない。  
 影はゆっくりと近づいてくる。
「来ないで……!」
 崩れ落ちそうな体を何とか支え、私は奥まで後じさりをした。肩から鞄がずれ落ち、床に落ちた。
 喉がカラカラに渇いていた。
 一歩、一歩、確実に距離が縮まっていく。
 座席をひとつひとつ通り過ぎながら、ゆっくり、ゆっくり進む男。
 ジャリッ……。ジャリッ……。
 もう、両手でケータイを握り締めるのが精一杯だった。
 歯がガチガチと鳴り出す。
 後悔してももう遅い。逃げ場は塞がれている。
 ――どうしたらいい?
 窓から差し込む街灯の光が、男の足元を照らした。
 ゆっくりと向かってくるシルエットが、少しずつ色をつけ始める。
 闇が斜めに切り取られ、男のズボンの裾が見えた。くたびれたベージュ色。
 次に、腰まで見えた。24歳という割には、締まりがない。
 ジャリッ……。
 シャツ越しでもわかるたるんだ腹部。
 ジャリッ……。
 くたびれたシャツの胸元、そこから覗くごわごわした毛。
 ジャリッ……。
 とうとう、首まで見えた。無精髭の生えた顎が肉に埋まり、境が区別できない。
 男は、全体的にずんぐりした、不潔な印象だった。
 ――写メの感じと、全然違う……。
 どういうこと……?
 男は座席ひとつ分まで近づいていた。
 顔が見える直前――男は、私の鞄が落ちているところで立ち止まり、ケータイを取り出した。カチカチと音がする。
 ブーン、ブーン。
 突然、手の中で振動が起こり、私は反射的に手を離してしまった。カシャンと乾いた音を立て、ケータイが滑り落ちる。
 床に転がったケータイはその場でくるくると回り、衝撃で開いた画面は、まるで私に見せつけるかのように、こちらに向いて止まった。
 真っ白な画面に並んだ文字。
〈こんばんは。ケイコさん〉
 画面が変わる。
〈受信中です〉――いつもならドキドキしながら見つめているはずの文字。
 ブーン、ブーン。
〈やっと〉
 ブーン、ブーン。
〈会えたね〉
 ――今は、その無機質な文字は恐怖の象徴でしかない。
〈受信中です〉
〈……ぼくが〉
 ブーン、ブーン。
〈てつやだよ〉
 次々と切り替わる画面から、私は目が離せなくなっていた。
〈受信中です〉
 ブーン、ブーン。
〈ケイコさん……〉
 床のケータイは、まるで生き物のようにうなり続けていた。
〈受信中です〉
 ブーン、ブーン……。
〈会えて〉
「ウレシイよ」
 甲高い声。
 顔を上げると、外灯に照らし出された中年オヤジがそこにいた。脂ぎった顔を歪め不気味な笑みを浮かべている。
 私が悲鳴をあげるのとオヤジが向かってくるのは同時だった。
〈受信中です〉
 闇の中に、羽虫の群れのような振動音が響いた……。