4.
慌ただしい足音が校内にこだまする。
職員室を出、階段を一目散に五階分まで駆け上った三人は、肩で息をしながら、屋上の扉の前に立った。
倫がノブを回すと、ガチリと重い音がし指が空回りをした。
「……あれっ? さっきは開いてたのに」
「立ち入り禁止のはずだろう?」
どこか諦めた口調でため息をつく修治。
「でも、さっきは開いたんです。――あ、そうだ」
倫が俯いている勇輝の顔を覗き込む。「勇輝さん、ここの合鍵、まだ持ってますか?」
その言葉に勇輝がはっとする。
「なんでそのこと知って……」
「一美さんが言ってました。ここ、開けてもらえますか?」
倫が横にずれ、扉の正面を空ける。
勇輝は戸惑いながら、ジャケットのポケットからキーケースを取り出した。ジャラジャラ音をたてる束の中から、ひとつ、小柄な鍵をそっと握りしめる。
ゆっくり扉の前に歩み寄り、勇輝は鍵をノブに差し込んだ。軽く右に回すと、カチリという開錠の音が響く。
「開いた……」
誰ともなく呟くと、勇輝はそっと扉を開けた。
地平線まで広がる晴天と柔らかな日差し。暖かで瑞々しい春の香り。
吹き抜ける優しい風を頬に感じながら、三人は屋上に降り立った。パノラマを切り取る金網の向こうから、軽やかな小鳥のさえずりが聴こえる。
「……久しぶりだな、ここからの景色」
修治が目を細める。
立ち尽くす勇輝のそばをすり抜け、倫は辺りを見回した。屋上には、扉を囲むコンクリートの壁と、柵で仕切られた小さなポンプがあるのみ。首を回らせば容易に周囲を確認することが出来る。
だが、倫の視界に件の女生徒の姿はなかった。
「あれ……? ここで待っててって言ったんだけど……」
「……やっぱりな」
頭を掻く倫の後ろでポツリと呟く勇輝。「やっぱり、一美がいるわけがないんだ」
「そんな! 確かに、ここでさっき話したんです」
「――有り得ないんだよ!」
突然の勇輝の叫び声にびくっと首を竦める倫。
「有り得ないんだ……一美は、三年前に死んだんだから」
――え?
修治がため息交じりに呟く。
「三年前の卒業式の日に、一美は亡くなったんだ。だから……ここにいるわけはないんだよ」
そんな……。
「亡くなったって……どうして?」
倫の問いかけに、遅れてやってきた清香が答えた。
「さっき先生に聞いたわ……病気だったんでしょう?」
清香がアルバムを掲げた。開かれた修治達のクラスの集合写真には、その右上に丸く縁どられた窓から微笑む女生徒――一美の姿があった。
勇輝が重い口を開く。
「そうだよ……あいつは、一美はもともと体が弱かった。学年が上がるごとに休みがちになっていって……三年前の今頃も、体調が悪いってずっと休んでた」
――卒業式当日、一美は最後まで学校に来なかった。だから俺達は一美の分の卒業アルバムと証書を持って、家に行ったんだ。
「そうしたら……一美は容体が急変して――ちょうど卒業式が終わった頃に息を引き取ったって……おばさんが……っ」
言葉を詰まらせる勇輝。
四人の気持ちとは裏腹に、屋上には変わらず暖かい日差しが降り注いでいる。それはあまりに不似合いな光景だった。
勇輝が続ける。
「俺は……俺は一美の死を受け入れられなくて、葬式にも出なかった。卒業式の後、すぐに東京に行ったんだ。逃げるみたいに……」
「勇輝……」
「認めたくなかったんだ。だから、こんな薄情な俺のこと、きっと一美は怒ってる……」
苦悶の表情を浮かべる勇輝。
「……とても仲がよかったのね」
清香の言葉に、修治が頷いた。
「俺と勇輝と一美は三年間ずっと同じクラスで、同じグループだった。バカをやるのはいつも俺達だったけど、一美までいつも一緒に怒られてくれて……」
――一美は、入学当初は体が弱いことを気にして俺達と打ち解けようとしなかったけど、勇輝が半ば強引にいろんなところに連れ出して……。
「そうしたら段々、一美は笑ってくれるようになったんだ。俺達はそれが何より嬉しかった」
微笑む修治。「中でもやっぱり、一番はあの文化祭かな。一美のあんな嬉しそうな表情、後にも先にも見たことなかった」
アルバムを手に取り、修治は懐かしそうに眺めた。
――でも、それが本当なら……私が出会ったあの子は……?
あれは……人違いだったってこと……?
そんな、まさか! あんなにはっきりと会話をしたし、内容だってまだちゃんと覚えてるのに!
困惑する倫の視線から逃れるように、勇輝が目を伏せる。
立ち尽くす倫の傍らで、清香がふと視線を止めた。
「ねえ……あれ」
腕を引かれた倫が清香の視線の先を辿る。
真っ青な空をバックに、昼下がりの陽の光を反射する手すりが見える。眩い光の中、その一部が風にたなびいている。
「……?」
近寄ってよく見ると、それは手すりに巻きつけられたスカーフだった。淡いピンク色の先端に白いK≠フ刺繍がある。
「これ……!」
慌てて解き、勇輝の目の前に差し出す。「これって、一美さんがしてたスカーフですよね?」
「えっ?」
修治も慌てて駆け寄る。
スカーフを目にした勇輝の表情が驚愕に変わった。
「このK≠フ刺繍……」
修治が頷く。
「これって……一美が自分で縫ったっていってた、一美のイニシャルのK≠セよな」
顔を見合す二人。
「……だけど、こんなことあり得ない。あの後、おばさんは……一美の持ち物にはこのスカーフはないって言ってたんだ……」
首を振る勇輝。「だから俺は、てっきりもう他の誰かにあげたんだと……」
――それがなんで、三年も経ってから、ここで見つかるんだ?
「このスカーフ……まるでついさっき結んでいったみたいよね」
清香が呟く。
「やっぱり、私がさっき出会ったのは一美さんだったのよ」
倫の言葉に勇輝が顔を上げた。
「一美さんね、ここからの夕日がすごく綺麗だった、ってあたしに嬉しそうに話してくれたんです。中学校で一番の思い出だって。だから、勇輝さんにすごく感謝してた……」
――それでも、一美さんはずっと、勇輝さんに気持ちを伝えることを迷ってた。勇気がでなくて、ずっと悩んでた。
だから、告白のチャンスだった卒業式の日に亡くなって……どんなに無念だっただろう。
スカーフを渡すだけ、たった一言伝えるだけだったのに、それが叶わなかった。後悔しても、もうどうにもできない。……もう手は届かない。
ただ伝えたかった、ただ大好きな人に、このスカーフを持っていて欲しかった。
「その想いが強かったから、一美さんは、勇輝さんに渡せる日がくるまで、誰にもこのスカーフを触れさせたくなかったんじゃないかな」
どうしても、直接渡したいと思っていたから……。
――あたしは、そんな三年前の一美さんの気持ちに触れたのかもしれない。一美さんの強い想いが残るこの屋上だからこそ、出会うことが出来たのかもしれない。
「一美さんはきっと、三年前の卒業式の日に、こんなふうに……勇輝さんに渡したかったんだと思います」
淡い色のスカーフをゆっくりと掲げ、倫は勇輝の正面に立った。
勇輝の戸惑う視線が真っ直ぐにその手元に注がれる。
「あたしが代理で渡します。一美さんの気持ち――受け取ってください」
修治と清香が見守る中、勇輝は震える指でスカーフに触れた。優しく両手で包み込むように受け取ると、しっかりと胸に抱き、ゆっくりと目を閉じた。
「……一美……」
呟く勇輝の頬に一筋の涙が伝う。「ありがとう……一美」
四人を包むように、柔らかい春の風が花の甘い香りを運んでくる。
ありがとう……
――一美さんが最後に言ってくれた言葉。
きっとどこかで、一美さんは微笑みながらこの光景を見ているような気がする。
これでやっと、三年前の想いが遂げられたんだね。
よかったね、一美さん。
見上げると、透き通るような青空に、真っ白な飛行機雲が、地平線までずっと続いているのが見えた。
「……それにしても」
校舎を背に並んで歩きながら、倫は呟いた。「なんであたしだけが出会えたんだろう、一美さんに」
「そりゃ、同じ気持ちの持ち主だったからじゃない?」
清香が冷静に呟く。
「同じって……」
「片思いしてるところと、リボンを渡したくても勇気が出せないと・こ・ろ」
前方を歩く修治達に聞こえるような大声を出す清香。
「ちょっ……しーっ!」
「今のうちに渡しちゃえばいいのに」
そんなやりとりが聞こえたのか、修治が振り向く。
「どうした? 二人とも」
「ちょうど兄貴の話をしてたのよ」
清香が修治の傍へ進む。「ねえ兄貴、さっきのシーン、ちょっと羨ましかったんじゃない?」
「なんでだよ」
「だって一枚ももらわなかったもんね? リボン」
「えっ!?」
倫が声を上げる。「うそッ」
「本当よ。ライブなんかやったからファンの子もそれなりにいたのに、受け取らなかったのよ。バカよね〜」
「清香……それが兄貴に言うセリフか」
修治がため息をつく。
「えっあの……なんで受け取らなかったんですか?」
「あ〜それは……」
頭を掻く修治。「なんとなく、照れ臭かったんだよな、あの頃は」
そう言ってはにかむ修治。
その笑顔に見とれていると、いつの間にか傍らの清香の姿がない。驚いて見ると、彼女は気を利かせ、前を歩く勇輝に追いついて談笑していた。途中、一度だけ倫を振り返りウィンクをする。
――えっ、今、渡せってこと?
倫達が歩いているのは桜並木が続く見慣れた通学路。視界を彩る幻想的な桜吹雪はムードたっぷりだったが、たまに通行人ともすれ違うことがある。倫としては、もっと人気のない場所で告白したいと思っていた。
――さすがに、ここじゃ無理だよ、清香……!
「どうかした?」
ふいに顔を覗きこまれ、倫は飛び上がりそうになった。鼓動が激しく打つ。
「いえッあの……なんでもないです」
修治の目を見ることができない倫は、赤面したままぎこちなく正面を向いた。
歩調をゆるめながら無言で歩いていると、ふいに修治が口を開いた。
「……清香の言う通り、さっきのはちょっと複雑な気分だったかも」
「え?」
「倫ちゃんが、勇輝にリボンを渡すところ」
言葉の意味がわからず、首を傾げる倫。
「へ……? あの時は……一美さんの代理で」
「うん、もちろんわかってるよ。わかってたけど……ちょっとね」
微笑む修治。その横顔は少し照れ臭そうに見える。
それって……?
言葉の意図を想像し、倫は思わずにやけそうになる頬を押さえた。
「それに……やっぱり三年も経つと変わるよな。髪も伸びて、大人っぽくなったし」
「え……。あたしのこと、ですか?」
「そうだよ。一瞬誰だかわからなかったくらい」
……ほんとに?
思いがけない言葉の数々に胸が高鳴る。
――三年前のあの時、私は修治さんにとってコドモ≠セった。それが悲しくて、少しでも女の子≠ニして見てもらえるように、髪を伸ばした。
そして今、修治さんはあたしのことを大人っぽくなった≠チて言ってくれた。修治さんにとって、もうあたしはコドモ≠カゃないんだ。三年前のあたしとは、違うんだ。――夢みたい。
満開の桜並木の下、倫の目の前には、ゆっくりと先を歩く修治の大きな背中がある。
――ずっと遠くて、届かないと思っていた背中。
それでも……今日だけは、勇気を出すんだ。
三年前に出せなかった勇気。今度こそ後悔しないように、ちゃんと伝えたい。
あたしと一美さんが出会えたのだって、きっと同じ気持ちだったから。同じ卒業式≠迎えた、同じ空間を共有していたあたし達。その時の女の子達の気持ちは、きっと、昔も今も、いつだって同じなんだよね。
一美さんの想いは、三年越しで勇輝さんに届いた。
今度は、あたしの番だよね。
一美さんと出会えたことで、私もやっと勇気を出せるよ。
――あたしは、大きく息を吸って、胸元の赤いリボンに触れた。
「修治さん……!」
桜色の雨の中、あたしの大好きな人は、ゆっくりと振り向いて、あたしを見た。