作品タイトル『蜘蛛』

 4.

 ――聞くな!
 頭の中に、蜘蛛の声が響いた。
「え?」 
 振り返ったけれど、そこはただの闇だった。
「蜘蛛? どこにいるの?」
 見慣れた声音に安堵し、思わず涙腺が緩む。すがるように私は空に向かって叫んだ。
 ――こっちに走れ。早く。
 いつもの皮肉めいた声が、冷静に告げる。
「こっちって……? どこよ……」
 言いながら、私は鎮目君とは反対方向に走り出した。両手を探るように突き出し、闇を駆ける。
 背後から、
「るるるるるるるるる……じ、じじじじじじじじ」
 と訳のわからない言葉を発しながら鎮目君が笑顔で追いかけてくる。闇に浮かび上がるその身体は、心なしか一回り大きくなったように見えた。
 ――こっちだ。
 蜘蛛の声が聴こえる。
「蜘蛛……!」
 叫びながら、私はひたすら闇を走った。
「じじじじじじじ、ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃ」
 鎮目君が歯軋りのような奇怪な声を出しながら追ってくる。
 振り返ると、彼は関節をバキバキと鳴らしながら、首を有り得ない方向に曲げていた。彼の目は血走り、蒼白な頬にいくつも血管が膨れ上がっている。肩、肘を逆に曲げ、時折首を回転させながら、鬼のような形相で迫ってくる。
 ……人じゃない!
「きゃああ!」
 叫びながら、私はひたすら走った。
 助けて。助けて、蜘蛛!
 闇の中、夢中で伸ばした手の先に、ふいに温かな何かが触れた。
 ――手?
 私が触れた何かは、私の手を掴み、力強く引っ張った。
 倒れる!
 ……と思った瞬間、私は毛布のような柔らかい感触の中にいた。
「え?」
 ゆっくり目を開けると、視界は真っ白な糸で埋め尽くされていた。毛糸のような太いそれは、それぞれが幾重にも絡まり合い、ハンモックのように私の体を宙で支えていた。糸は冷たく輝き、らせん状の美しい模様を編み出していた。
「これ……」
 顔を上げると、同じ白い糸にがんじがらめになった鎮目君が見えた。
 その傍らに、艶やかな黒髪の美しい青年が見える。彼の全身は淡く輝く赤い光に包まれていた。
 ……誰?
 それに、この毛糸って、一体……?
 呆然としていると、青年は涼しげな瞳で振り返った。
『ったく、バカだな、みつき。忠告しただろ』
 ――この皮肉たっぷりの声!
 まさか……。
「く……蜘蛛なの?」
『今頃気づいたのかよ』
 鼻で笑われ、思わずムッとする。
「な、なによ。蜘蛛! 人の姿になれるなら、なれるって……早く言いなさいよ」
 違う、本当に言いたいことは別にあった。
 けれど……私は少し混乱していた。正直、文句を言うので精いっぱいだった。
 だけど、蜘蛛の登場によってさっきまでの恐怖が薄れたことは確かだった。私は半ば腰を抜かしながら、必死で糸にしがみついていた。
 蜘蛛はそんな私を見透かしたようにふっと笑うと、糸の中でもがく鎮目君の方へ視線を向けた。
『ふん、俺のテリトリーで狩りをしようなんて、考えが甘いぜ』
 呟くと、鎮目君を取り囲む糸が、まるで意思を持っているかのようにするすると動き出した。鎮目君は唸りながら必死で手足を動かすけれど、純白に輝く糸は私のものとは違って粘着性があるのが、動けば動くほど、彼の顔、手足、胴体にどんどん絡みつき、ゆっくりと締め上げていった。
『そのうち、死ぬだろ』
 冷たく言い放ち、蜘蛛は私に向き直った。
「蜘蛛……あれ、一体なんなの?」
『……魔≠セ』
「え?」
『最初に会った時に話したろ? 妖怪みたいなもんだ』
「けど、鎮目君は人間……」
『――憑かれたんだよ』
 蜘蛛が大きく息を吐く。『人間の心の闇に巣くってとり憑くなんて、俺達には朝飯前だからな』
 そんな……。
 鎮目君が憑りつかれたなんて……。
「でも……だったら、なんとかならないの? 元に戻すとか……」
 その言葉に蜘蛛が鼻を鳴らす。
『何人も殺してる人間に対して、随分甘いこと言うんだな』
「そんなつもりじゃ……」
『ま、もしどうにかできるとしても、あそこまで同化してたら無理だぜ』
 蜘蛛の視線の先には、巨大な繭のようになった糸玉があった。鎮目君の姿は完全に飲み込まれていた。
「嘘、みたい……」
 私が呟いた時、ふいに繭がピクリと動いた。次いで、糸の塊が内側からの力でもごもごと動き出す。
「や……なんなの?」
『ふん、見てろ。変化≪へんげ≫するようだぜ』
 冷静な蜘蛛の声。
 繭は生き物のように脈打ち、中から錆び付いた金属をすり合わせるような耳障りな音が響いた。――さっき聞こえた鎮目君の声だった。
 ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……。
 じじじじじじじじじじ……。
 ……ってやるるるるる……おおおおおれが……。
 段々と声に抑揚がついてくる。
 同時に、ぶちぶちという音と共に繭が破壊されようとしていた。
「ちょっと……蜘蛛」
 蜘蛛は静かに成り行きを見つめている。口元には笑みさえ浮かべて。
 なんでそんなに冷静なわけ? こいつは……。
『見ろ』
 蜘蛛が顎をしゃくった時、とうとう繭が派手な音をたてて破裂した。糸の残骸が辺りに降り注ぐ。
「きゃあ!」
 衝撃に、私は思わず顔を背けた。
 糸にしがみついたままゆっくりと目を開けると、前方に奇妙なものが佇んでいるのが見えた。
 そこにいたのは、何十本も足の生えた巨大な蟲だった。不気味に蠢く足に囲まれた腹に溶けるようにして、鎮目君が上半身を突き出している。青白い顔、虚ろな瞳、何も感じていない人形のような表情で、彼はそこにいた。
 そして何よりも私の目をひいたのは、細かな歯がびっしり生えた蟲の口元だった。鋭利な歯に突き刺さっている小さな布切れには見覚えがあった。モスグリーンのそれは、人気が高いと噂の――鴻台高校の制服の一部だった。
「あの蟲が……三人を殺したの?」
 声が震えた。
『殺したというより、食ったんだ』
 冷静に訂正される。
『鎮目ってやつは、獲物――もとい、人間をおびき寄せる餌として利用されたんだろう。その人型の器をもって』
 そんな……信じられない。こんなことが、現実に起こるなんて……。
 蟲は、興奮するように毛むくじゃらの足を動かした。同時に、鎮目君の口から吐息混じりの声が漏れる。
「じ……じょれい……して、あげるよ。いちりゅう……さん、お……俺が」
 ――俺が……君を助けてあげる……。
 だから、代わりに俺の一部になれ……!
 無表情な鎮目君の口から、一筋の血が滴り落ちた。
 こうやって、彼は相談しに来た女生徒を次々殺していったんだろう。
 壊れていく鎮目君を見ていられなくて、私は糸に顔を埋めた。
『ちょうどいい、そうしてろ』
 呟き、蜘蛛は鎮目君の……いや、蟲の前に立ちはだかった。
「な、なにするの……」
 顔を上げると、蜘蛛の腕からは幾重もの白い糸が生き物のように空に伸びていた。
『お前は見ないほうがいいぜ』
「ちょっと……お前じゃなくて、みつきよ」
 こんな状況でも、蜘蛛にはつい気を張ってしまう。
『ふん、いい度胸だな。みつき』
 蜘蛛の漆黒の髪から覗く赤い瞳が、鋭く光った。『あっちを向いてろ』
 言い、蜘蛛は両腕から無数の糸を繰り出した。糸は闇に舞い上がり、蠢く蟲を一瞬で取り囲んだ。
「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
 何百何千もの糸が蟲の肢を絡めとり、締め上げた。蟲の頑丈な胴が、みしっと音を立てて割れる。食い込んだ白い糸を越えて赤黒い体液が染み出す。
 蟲の体液は、腹に埋まる鎮目君の顔にどろっと流れ落ちた。鎮目君の目からも血が溢れ、うめき声と共に派手に吐血した。
「……いや!」
『だから見るなって言ってんだろ』
 蜘蛛が呆れたように呟く。
 蟲は、喘ぎながらもなお自由を求めて暴れ続ける。
『ふ、この俺様の糸から逃げられると思うな』
 言うと、蜘蛛はふわりと浮きあがり、蟲の背後に回った。糸で蟲の頭をのけ反らせ、自分の口元に引き寄せる。
「……蜘蛛!?」
 私は悲鳴に近い声をあげた。
 蜘蛛が狂気に満ちた視線を私に向ける。
『なあ、みつき……お前にとって有害なものは、全部駆除してやるって取り引きだったよな?』
 そう言って笑う蜘蛛の口元からは、長く鋭い牙が覗く。
『どうなんだ? みつき』
「い……言ったわ」
『じゃあ今、お前にとって有害なものはなんだ? 駆除してほしいものはなんだ?』
 蜘蛛の目がぎらぎらと光っている。『言え』
 ――こ、怖い……。
 私は震える体を必死で支えながら、残酷な言葉を紡いだ。
「それは……その蟲よ。蜘蛛……」
 言うと、その瞬間、蜘蛛は満足そうに微笑んだ。それは思わずうっとりするほど美しい笑みだった。
『聞いたか? 雑魚野郎』
 蜘蛛が糸を手繰り寄せる。『俺の糸にかかった獲物は絶対に逃がさない。そして、俺の主人を危ぶませる存在も容赦しねえ。お前はこの場で俺に駆除されるんだよ』
 冷たく言い放ち、蜘蛛はその鋭い牙を突き立てた。蠢く蟲の肢が動きを止める。
 ――これは、夢……?
 段々と、意識がぼんやりしてくる。
 歪む視界で、鎮目君と蟲が、まるでスローモーションのようにゆっくりと干からびていくのが見えた。対照的に、蜘蛛の瞳が輝きを増していく。
 蜘蛛が……食事をしてる……。
 はっきりと認識できたのは、そこまでだった。


 ――気が付くと、私は自分の部屋のベッドにいた。
 何かとんでもない悪夢を見た気がして、私は重い頭を抱えながらゆっくりと起き上がった。
 時刻は、朝の6時。
 いつもは7時半に起きるのに……なんでこんなに早く目覚めたんだろう……。
 軽く頭を振って、私は何気なく天井の隅を見つめた。
 いつもの場所に、蜘蛛の巣はなかった。
 ――ああ、全部夢だったんだ。
 蜘蛛と会話したことも、殺人事件や……鎮目君のことも……。
 そう納得しかけた時、左足に鋭い痛みが走った。
「!」
 見ると、膝小僧に見覚えのない擦り傷がある。足を動かしたことでかさぶたが破れ、血が滲んでいた。
「これ……あの時の……?」
 闇の中で転んだ時の……。
 急に、霧が晴れるように意識がはっきりしてきた。
 闇の中で鎮目君に――ううん、蟲に襲われて、蜘蛛が助けてくれたこと。そして、蜘蛛が……蟲に歯を立てて――。
 そこまで思い出した時、目の前に音もなく黒いものが降りてきた。
「きゃー!」
『……おいおい、叫ぶなよ、朝からうるせぇな』
 憎ったらしいこの口調……。
 焦点を合わせると、それはあの蜘蛛だった。黒光りする胴体が妖しい輝きを放っている。
「……蜘蛛」
 信じられない思いで呟く。「じゃあ、やっぱり……昨夜のことは夢じゃなかったの?」
『おいおい、全部夢だと思ったのか? みつき』 
 皮肉めいた蜘蛛の声。『現実に決まってんだろ』
 その莫迦にしたような声を聞いていると、段々と腹が立ってきた。
「……もう、なんなのよ、あんた! やっぱりあんたと居ると、ろくなことないじゃない!」
『なんだよ、それが命の恩人に向かって言う言葉か?』
「う……」
 そう言われると、確かに……あの状況から助けてもらったことは事実だけど。
『それに、お前が気絶するから、あの後大変だったんだぜ? 部屋まで運ぶの』
「……え」
『お前、ダイエットしろよ』
「うるさい!」
 叫んで、私は昨日の蜘蛛の姿を思い出した。艶やかな黒髪に涼しげな目元、すらりと伸びた肢体……想像以上の美青年だった。
 じゃあ、部屋に運ぶ、って……蜘蛛が私を抱きかかえて……?
 映画のようなワンシーンを想像していると、
『言っとくが、糸で吊るして持って帰ってきてやったんだからな。感謝しろよ』
 その淡々とした口調に、私の中にわずかに残っていた淡い期待は見事に打ち砕かれた。
 なにそれ……全然、ムードがない!
「人を物みたいに……!」
 蜘蛛目がけて枕を投げると、彼は笑いながらひらりとかわした。
 ――でも、とにかく、昨日のことは夢じゃなかった。
 連続バラバラ殺人の犯人は、蟲に憑りつかれた鎮目君の仕業だった……。
 蜘蛛が出てきてくれたお陰で助かったけど……あの後、どうなったんだろう?
 知りたいような、知りたくないような……。
 私は、蜘蛛を部屋の隅に追いやって着替えをしながら、
「ねえ……蜘蛛。結局……あのあと、鎮目君はどうなったの?」
 と、こわごわ尋ねた。
『あ? 食ったぜ』
 当然のように答える蜘蛛。
「う……やっぱり」
 気分が悪くなってきた。
『心配すんなよ、残骸はうまく捨てといたから』
 ……有り得ない。
 なんでこんな飄々としてるわけ? こいつ。
「じ、じゃあ……あの蟲も?」
 制服に着替え終えて振り返ると、蜘蛛は床の隅の新しい巣に何やら黒い塊を巻きつけていた。
『そいつはまだ食い終えてねえから、ここに置いとく』
 可笑しそうに笑う蜘蛛。
 ちょっと待って、ねえ、じゃあその巣にある黒いものって……。
「いやーっ! もう、最低!」
 叫んで、私は猛ダッシュで部屋を出た。
『冗談だっつーの』
 そんな蜘蛛の呟きは耳に入らなかった。


 朝ごはんも食べずに出てきたから、私はいつもより少し早く学校に着いていた。
 まばらな教室内では、クラスメートがバラバラ殺人事件についてひそひそ話している。じきにその話題に鎮目君の行方不明の件も加わるんだろう。
 私はまだ気分が悪くて、鞄を置くと机に突っ伏した。
 混乱した頭で考える。
 ――バラバラ殺人の犯人は、鎮目君――もとい、鎮目君に憑りついた蟲だった。蟲が鎮目君への相談者を襲って……殺していた。
 だけど、どうして身体をバラバラにする必要があったんだろう……?
 そこで、ふいに私は蜘蛛のことを思い出した。
 もしかして、あの蟲も……蜘蛛みたいに人間を食べていて、必要なのは胴体だけだった……? だから、必要のない腕とかは、あそこに捨て……。
 う、だめ、気持ち悪い。
 ――だって、蜘蛛はその蟲をさらに……。
 ……。
 ……ああ、もうイヤ、自分の記憶力が、イヤ!
 頭を抱えていると、アズミと梶が並んで登校してきた。
「あ、みつき〜」
 アズミが駆け寄ってくる。「ちょっと〜昨日大丈夫だった? 何度かけてもケータイ繋がらなかったし〜」
 ……ああ、アズミと会話してる途中に襲われたんだった。でももう思い出させないで……。
「おい? 真っ青だぜ、みつき」
 二人が心配そうに覗き込んでくる。
「う、うん……大丈夫、ごめんね」
 私は笑顔を作って答えた。
「……あ、そうそう、みつき」
 おもむろに、アズミが鞄から一冊の本を取り出した。その分厚い本は経年劣化でページが黄ばみ、どこか埃臭かった。
「? なに、これ?」
「蜘蛛の本よ」
 アズミがにっこり微笑む。「昨日、蜘蛛について知りたがってたでしょ? だから見つけてきたの」
 ……う、ちょっと今はやめてほしい。
 止める前にアズミはページを捲って説明を始めた。
「蜘蛛っていうのは肉食でね、沖縄ではツバメを食べる姿が目撃されてるくらいなの。面白いのは、蜘蛛の食事のし方ね」
「食事?」
 梶が反応する。
「そう。蜘蛛はね、消化液を獲物の体内に注入して、液体にして飲み込むんだって。だから、蜘蛛が食べ終わった獲物は干からびるっていうか、空っぽになってるんだって。吸血鬼みたいで、すごくない?」
 ああ……昨日の回想そのものじゃない……。
 誇らしげに説明するアズミがちょっと憎い。
「そんな怖い話、やめろって、アズ〜」
 青ざめた梶が、耳を塞ぐ。
「私ももう、当分蜘蛛はいいわ……」
「え? どうしたの、みつき? まだまだ面白い話あるのに〜」
 口を尖らせるアズミ。「すごいのよ、飼い主の言うことを忠実に聞く蜘蛛っていうのもいるのよ〜?」
 ――飼い主。
 その言葉に、ふと青年姿になった蜘蛛のことを思い出した。
「……それ、どういうこと?」
 興味を持った私を見て、アズミが得意気に笑う。
「中国拳法の天釐蜘巣≪てんりんちそう≫≠チていう奥義でね、猛獣や爬虫類を飼育して、技の一つにするっていうのがあるらしいの。そうやって特殊な肉食の蜘蛛を育てて、飼い主の言うことを忠実にきくように教育して、糸を使って戦わせるんだって。蜘蛛の糸って、すっごい有能な性質があるんだから〜」
 そこまで話したところで予鈴のチャイムが鳴った。
 アズミは私の机に本を置いて、私の後ろの席に戻っていった。
 分厚いその本を眺めながら反芻してみると……確かに、蜘蛛の糸にはいくつか種類があるのかもしれないと思った。昨夜私を守るように張り巡らされていた糸と、鎮目君を縛っていた糸は、どこか性質が違うみたいだった。私の方の糸は毛糸みたいにふわふわだったけれど、鎮目君に巻き付いていた糸は粘着質で、蟲の固い体を突き破るほど頑丈に見えたものね。
 それにしても……飼い主≠ゥ……。
 みつきにとって有害なものは、駆除してやる
 蜘蛛の言葉が蘇る。
 思い起こせば……何だかんだ言っても、蜘蛛は私との取り引きを守って、危険な目に遭った私を助けてくれたのよね。……やり方は非道だったけど。
 ――そうだ、私、まだ蜘蛛にお礼を言ってなかったわ。
 どんな展開になったにしろ、助けてもらっておいてお礼を言っていないのはよくないわ。悔しいけれど、そういうことはちゃんとしたい。
『礼儀は重んじるからな』
 そう言った非道な蜘蛛よりも礼儀がないなんて、なんとなく癪。
 私は、蜘蛛ともう一度話し合うことを決意した。


 ――放課後、私はケータイショップに寄り、新しいケータイを手に帰宅した。
 部屋に向かわずにリビングに行き、テレビを点けると、どのチャンネルも例の殺人事件の続報ばかりだった。時折、画面に一生懸命捜査にあたる兄の姿が映っている。
 お兄ちゃんには悪いけど、私は事件の真相をすべて知っている。犯人が人間でないことも、それがもうこの世にいないことも。……そんな真実、誰にも言えない。例え捜査を担当しているお兄ちゃんにも。
 ごめんね、お兄ちゃん。
 テレビを消し、私はゆっくりとした足取りで部屋に入った。
 蜘蛛は、新たに作った巣の上でじっとしていた。
「……蜘蛛」
 声の気配はなかった。
 蜘蛛は、取り引きを果たした今も、部屋にばっちり巣を作って、取りあえずまだ出て行く気はないみたいだけど。彼の恐ろしい実態を見てしまった以上、私にはこの小さな同居人の存在が恐ろしいし、不気味に感じる。
 けど正直、人間化した蜘蛛の姿は想像よりもかっこよくて……意外にときめいたりもしちゃったんだよね。妖怪をそんな風に見る時が来るなんて、想像もしてなかったけど。 
 ……何よりも、彼は私を助けてくれた。人間を食べると言っていた恐ろしい蜘蛛が、約束通り人間を守ってくれた。それもまた真実。
 だから……期限までの三日間。せめてその期間だけでも、もう少しだけ、様子を見てみようかな。
 今回みたいに、信じられないことが平気で起こってしまう世の中だから……蜘蛛との同居も、ちょっとアリなのかもしれない。
 だから取りあえず、まず筋だけは通しておこう。
 息を吸い、私は蜘蛛に向かってポツリと呟いた。
「――ありがと、蜘蛛」
 そんな私の決意と勇気は、蜘蛛にちゃんと届いたのかどうか。
 声の気配を消した蜘蛛は、ただ巣の中でじっと沈黙したままだった。
 予想通りの反応に私はひとつ溜め息をつき、気を取り直して新しいケータイの説明書を広げた。