作品タイトル『メル友』

第一夜:【受信】 T

〈受信中です〉
 ケータイが鳴った。
 ――別れよう。
 とびこんできたその文字に、私の思考は凍りついた。
 その日は、テツヤと付き合って丁度二年目の記念日だった。
「別に大した理由じゃねぇよ。好きなやつができた」
 そっけない返事。震える指でかけた電話は、ブツッという無遠慮な音とともにあっけなく切られた。
 目の前が真っ暗になる。
 力なくカーペットに仰向けになると、見上げた天井がぼやけ、頬を幾筋もの涙が伝い落ちた。
 テツヤと一緒に暮した1LDK。元々は、上京して一人暮らしを始めた私の部屋だった。去年、成り行きでテツヤと暮すことになるまでは。
 出会った二年前から、テツヤは定職にもつかずにふらふらしていたけれど、私と会う時だけは紳士的なひとだと思っていた。実際、彼は優しかったし、愛されてると感じる瞬間だってたくさんあった。
 でも……半年くらい前から、彼のどこかよそよそしい態度に気が付いた。頻繁な外泊、知らない香水の香り。服の趣味もどことなく変わっていった。
 だれど、私はそんな彼を問い詰めはしなかった。
 ――ソファの上には、主を失ったジャケットとGパンが、我が物顔で寝そべっている。
「こんなもの……!」
 拾い上げ、ドアのほうへ投げつける。
「俺の荷物、捨てていいから」
 吐き捨てるように呟いた、彼の言葉。
 元々、後から転がり込んできた彼の荷物は少なかった。
 ――ふざけないでよ!
 どうしていつもそんなに勝手なの?
 昨日だって、普通にこの部屋で話してたじゃない。毎日帰りが遅くても、私はあなたを責めなかった。反対にあなたの束縛が酷い時だって、私はちゃんと合わせてた。それだけ、大事にされてるんだと思ったから。お互いの時間を大切にしようって約束したから、だからずっと我慢してたのよ。
 それなのに……いつのまにか、テツヤは他の女との時間を大切にしていたってわけね。
 許せない――この二年間を返してよ!
「ひどいわよ……バカやロー!」
 呟いて、私はベッドに突っ伏した。不思議と、いくら泣いても涙は止まらなかった。怒りと憎しみで心が張り裂けそうだった。
 ――気付けば、私は泣きつかれて眠っていた。
 
 朝陽が容赦なく両目を射抜く。
 うっと呻いて、私はゆっくりと上体を起こした。
 どれだけ辛い失恋をしても、朝はやってくる。両目がパンパンに腫れ上がって酷くむくんだ顔でも、仕事に行かなくちゃいけない。
 今朝も習慣通りテレビを点け、貼り付けたような笑顔が並ぶ画面を横目に、いつものトーストを焼く。バターの甘い香りに包まれた瞬間、無意識にほっと息をつく。
 しかし、眠気覚ましの苦いコーヒーを飲んでも、まだ頭がスッキリしない。
 少しでも腫れをおさめようと、瞼を氷水で冷やしていると、ふいに大好きなバンドの着メロが鳴った。
 私は、自分でも驚くくらい素早い動きでケータイにとりつき、通話ボタンを押した。
『やっほーケイコ、おっはよー』
 同僚のマキだった。体中の力が抜ける。
「マキ……なに? 朝っぱらから」
 テレビの時刻が7時丁度を告げていた。
『あのさ、今夜会えない? 話したいことあるのよ』
「今夜……?」
 気分は重かったが、仕方ない。マキとは部署が違うため滅多に会えないのだ。
「わかった、今夜……7時くらいでいい? いつものカフェで」
『OK! ありがとっ。じゃあまた夜にね』
 ――いつも明るいマキ。マキに全部グチってしまおう。大学からの付き合いのマキならきっと一緒になじってくれるわ。
 身支度を整えながらそんなことを考えていると、テレビが7時20分を告げた。同時に、アナウンサーの流暢な声が響く。
「ここで、ニュースをお伝えします。今月に入ってから行方不明になっていた女子大生が、今朝未明、T県の山林で遺体となって発見されました。亡くなったのは都内在住の宮里由美さん、21歳で――」
 一つ年下か……かわいそうにね。
 そう……彼女と同じ歳に、テツヤと会ったんだったわ。マキに連れて行かれた合コンで……。
「――亡くなった宮里さんは、行方不明になる当日、友人に、出会い系サイトで知り合った男性と食事をすると話した後、行方がわからなくなっていることから、警察は宮里さんが最後に会っていたとみられる男性について、調査を進めています。次に――」
 また、出会い系サイト……か。
 そんなものでいい出会いなんてあるわけないわ。
 テレビを消し、私は部屋を出た。

「え……結婚!?」
 思わず叫んでから、私は周りを見回した。レトロな造りのイタリアンレストラン。上品な空気が流れる店内は一瞬静かになったが、すぐに何事も無かったかのような和やかな雰囲気に戻った。ゆったりとしたBGMが流れている。
「結婚て……ほんとう? マキ」
「ほんとうよ」
 にっこり微笑むマキ。
 残業を終えて7時半にカフェに着いた私に、開口一番、マキが言った言葉は――私、結婚するのよ
「結婚って……いつ? 一体誰と?」
 思わず身を乗り出す。
「来年の三月にね、友達の紹介で知り合ったひとなの」
「じゃあ、会社のひとじゃないの?」
「そうなの。歳は5つ上でね」
 幸せそうに微笑みながら、マキはゆっくりと白ワインを口に運んだ。グラスに添えた左手の薬指に、小さなダイヤが輝いている。
「そう……知らなかった。付き合ってたひとがいたのは聞いてたけど……」
 また、遊びだと思っていたのだ。マキはそういう子だった。
「ごめんね、私だっていつもの軽い気持ちだったのよ。彼、仕事優先のひとだし、最近はうまくいってなかったし……。けどね、ちゃんとしたポストについて、私を幸せにしたいって言って……先週、昇進のお祝いをした後、これくれたの」
 マキがリングを指で撫でる。
「そう……良かったね。お幸せに」
 今、笑うことは困難だった。けれど、無理に笑みを作ってそう言った。
「ありがとう」
 いつもの無邪気な彼女とは別人のように大人びた表情のマキ。「ねえ、ケイコはどうなの? テツヤくんと」
「ああ……テツヤ?」
 嬉々とした声で問う彼女に、手ひどく振られたなんて、とても言えない。
「……めっちゃ順調よ。私もマキに負けないように頑張らなくちゃ」
 笑顔で話す自分を、もう一人の冷めた自分が遠くから見つめていた。

「何をやっているんだ、君は!」
 社内中に轟き渡る怒声。「こんな単純なミス、ここも、ここもだよ! しっかりしてくれよ、コドモじゃあるまいし。君、この間もミスしただろう!」
 山積みの書類が崩れ落ちそうな勢いで、部長がデスクを叩いた。怒りに顔を歪め私を睨みつける。
「すみません……やり直します」
 ひたすら頭を下げ、私は席に戻った。やり直しの書類の束を机に置き、頭を抱える。
 ――こんな単純な失敗、新人の頃ですらしたことがない。
 簡単なデータ入力なのに、しっかりしてよ、私。
結婚するのよ
 ふいに、マキの幸せそうな顔が浮かんだ。
 ――辛い……。
 失恋して、からっぽで、その上、遊びまくってた友達に先越されるなんて……。仕事でも、最近失敗ばかりだし。
 足元からガラガラと崩れ落ちていく気分。何をやってもうまくいかないような気持ちになる。
 こんな気持ち、誰に言えるだろう?
 終電ギリギリまで残業して部屋に帰ると、私は玄関に横ざまに崩れこんでしまった。電気を点ける気力も出ない。
 まるで重い鉛を飲み込んだように胸が重い。疲れ切った肢体を動かすこともできず、そのままどこまでもどこまでも深い泥の闇に沈んでいく気分。
 真っ暗闇の部屋の中で、私はしばらく呆然と空を見つめていた。横倒しになった視界に無機質な壁が見える。固い床に押しつけられた頬からは急速に熱が失われていく。
「ピリリリリリリッ」
 突然、突き刺すような電子音が鳴り響いた。
「ひゃっ」
 条件反射で起き上がり、鞄をさぐる。振動するケータイの画面が青白い光を放っていた。見慣れた名前が浮かぶ。
「あ……もしもし?」
『あ! ケイコ? 遅くにごめん、今だいじょうぶ〜?』
 高校時代の友人、マユだ。彼女は既に結婚して、郊外に住んでいる。
「マユ……久しぶりね。どうしたの?」
『ちょっとね、実は今、ケイコの家の近くまで来てるんだ。遅いかなとは思ったんだけど……良かったら会えない?』
「そんなの気にしなくていいって、まだ21時じゃない。もちろんいいわよ」
 懐かしい声が今の私の唯一の救いに思えた。
『ほんと? よかった〜! 駅前にD≠チていうバーあるでしょ、そこはどう?』
「わかった。20分くらいで行くわ」
 ケータイを切り、私はそのまま部屋を飛び出した。一刻も早く、ひとりきりの寂しさから解放されたかった。